「復活」 (最終回)
今日は復活祭です。どの教会の礼拝でも、イエス様の復活をテーマに説教が語られ、礼拝の後に、復活のお祝い会が開かれることでしょう。
しかし、案外知られていないことですが、教会のベテラン信徒(例えば教会の役員クラス)の中に、この復活を信じていない人がいるという事実があるのです。その中には、はっきりと、「私には復活は必要ないのです」と言われる方もおられます。
キリスト教から復活を除いたら何が残るでしょうか。実行不可能な程に気高い愛の教えが残るだけでしょう。これでは、キリスト教は死んでしまいます。人に実行不可能な愛を示すだけでは、何の力にもなりません。
キリスト教にとって、復活は命です。キリスト教の内容は、「罪の赦しによる救い」(ルカ1:77)ということができます。そして、死は罪の結果ですから、罪の赦しは死からの解放を意味します。つまり、罪の結果死に閉じ込められていた命が、罪が赦されることによって、死の力から解き放たれるのです。命が死以上の力を取り戻すのです。この命が死以上の力をもっているということを明らかにするのが復活です。
人類は、神様に背いて以来、死の力に閉じ込められた命を生きるほかありませんでした。そして、いつの間にか、命は死によって限界付けられているものと思い込んでしまっていたのでした。心の底では、己の死を受け入れられない気持をもちながらも、誰一人免れることのできない死の前では、何の抵抗もできないのです。
そのような私たちに、神様は、命は死によって限界付けられてはいないことを示すために、御独り子を死なせ、その御独り子を死から復活させられるのです。この復活の事実によって、私たちは、神様から与えられた私たちの命が、死によって限界付けられたものではないということを、私たちの人生がこの世限りのものでないことを、はきりと示されるのです。
命が、死で終わるものではないと分かったとき、私たちの人生がこの世限りのものではないと分かったとき、私たちの今日一日の生き方が変わります。神様が永遠のお方であられるのと同じく、神様から与えられた私たちの命も永遠の命であると分かったとき、私たちの生き方が変わります。躍動した命、活き活きと生きる命、これが、キリスト教が与える命です。
2004年 「新しい時の始まり(その3)」 「新しい時の始まり(その4)」
「新しい時の始まり(その5)」 「福音を裸で」
「最も大いなるもの」
「我が母健在なり(その1)」
「我が母健在なり(その2)」
「アジアルーテル国際協議会に出席して(その1)」
「アジアルーテル国際協議会に出席して(その2)」 「新任牧師に贈る(その1)」 「新任牧師に贈る(その2)」
「新任牧師に贈る(その3)」
「献金と教会の収益事業」 「『武』の克服−真の平和を求めて−」
「派遣自衛隊は即時帰国か武装解除を」
「ボランティアは今こそバグダッドへ」 「自己責任」と「日本の国益」
「母の入院(その1)」
「母の入院(その2)」 「母帰天(その1)」 「母帰天(その2)」 「総会議長に再選されて」
「かみと神と神様」
「ノンクリスチャンの死(その1)」
「ノンクリスチャンの死(その2)」
「信仰義認(その1)」
「罪の赦しとしての救い(その2)」 「フィンランドを訪ねて」 「高倉美和牧師の想い出」
「当世子ども気質」
「平和憲法を守ろう(その1)」 「平和憲法を守ろう(その2)」 「敗戦記念日に思う」
「イエス様は全ての人の味方」
「モラトリアム人生」 「住職という制度」
「暴力の連鎖を断ち切ろう」
「母のいない敬老の日」 「人は何のために生きるのか」 「信仰の成長」 「聖書による不正のすすめ?」
「犬の思い、飼い主の思い」
「『恵み』ということ」
「絶えざる改革を」
「全聖徒主日に思う」
「生かされてある(その1)」
「生かされてある(その2)」
「教会の暦」
「イエス様の露払い」 「インマヌエルとは」
「マリアの喜び」
「新しい価値観で希望の内に」
2005年 「この一年、希望を抱いて」 「服喪期間?に年賀状を頂いて」 「微妙な表現「近づいた」」
「アメリカよ驕るなかれ」
「福音の神髄」
「悪霊はいない」
「神様と人間と悪魔」
「当世結婚事情」
「人生真っ盛りを捧げて」
「神の業が現れるため」
「狼の群れに送り込まれる羊」
「主の十字架の意味」
(只今、「来たりませ 主よ」のもくじを作成中です。しばらくお待ち下さい)