「自己責任」と「日本の国益」

 イラクで誘拐され人質になった人たちが、無事救出された。本当に良かった。だが、今、この人たちへの過剰なバッシングが行われている。それも、民間人だけでなく、政府関係者や国会議員も加わってのバッシングの大合唱である。曰く「自己責任をとれ。」つまり、国が救出に要した費用を、救出された者が負担せよ、ということである。なぜなら、政府が「危険だから行くな」と勧告しておいたにも拘わらず行ったが故に起った事件だからその責任を本人が負うべきだ、というのである。

 この「自己責任」論は、筋が通っていて分かりやすい。「もっともだ」と同意したくなる。だが、これは、極めて危険な主張なのである。何となれば、政府の決定だけがその国の在り様だとする非民主的な考えがその根底にあるからである。政府の決定に盲目的に従うことが求められ、その決定と異なる行為を信念をもって行うことが許されないということこそ、非民主的姿の極みである。昔の「非国民」という言葉が思い出される。

 人質にされた人たちは、ふだんからそれぞれにイラクのひいては世界の明日のために活動をしてきた人たちである。そして、何より、イラクの人たち自身が、彼らのそのような活動を評価していた。「彼らを救ったのは、彼ら自身だ」という声が上がったのは、そういう意味なのである。これこそ、彼らが、「自己責任」をきちっと取っている証拠である。

「日本の国益」ということが言われる。さしずめ、彼らのこの度の出来事は、「日本の国益」に大いに反することなのであろう。その「自己責任」論は、その実害の一部でも本人たちに負担させるべきだという主張なのであろう。だが、この「日本の国益」論は、その見方が180度誤っている。彼らの行為こそが、「日本の国益」をおおいにもたらせているのである。

 彼らボランティア活動に従事している人は、そのような意識はもっておらず、ただ、イラクの現実の問題を担うことに専心しているであろうが、彼らの行為はそれ以上の意味をもっていることを見逃してはならない。彼らの行為がイラク人の、いや、世界の人たちの日本に対する尊敬の念をどんなに高めていることだろう。そのような「日本に国益」もたらせている彼らは、日本人としての私の誇りであり、彼らを救出するために、私が納めた税金が使われることに、私はもろ手を挙げて賛成する。