「福音を裸で」

 ここ2、3年、日本福音ルーテル教会では、宣教50周年の記念会を行う教会が多くあります。50年前、第二次世界大戦が終わった直後、アメリカの教会から宣教師が日本に大挙してやってきました。そして、キリスト教のブームが起こり、沢山の人が洗礼を受けました。それから20年程経った頃、私は、神学校を出て最初の任地に赴きました。

 私が赴任したその教会は、かつては40人を越す礼拝出席者があったそうですが、私が最初に礼拝を担当した日は、イースターであったにもかかわらず、出席者は18名でした。その頃には、もうあのキリスト教ブームは終わっていたのです。

 私は、教会の交わりから離れて行った人を教会の交わりに復帰させるのも牧師の大きな仕事だと思い、いわゆる別帳会員となっている人を、携帯用の聖餐式用具を持って精力的に訪問し、久しく聖餐に与っていない人と共に、聖餐礼拝を行いました。

 ある日、久しぶりに聖餐を受けた信徒が言った一言が、私に大きなショックを与えました。曰く、「先生、私はチョコレートが欲しかったんで教会に行ったんですよ。」まるで、それは、「だから、私はもう教会には関係ないのだから、来なくてもいいんですよ」と言わんばかりに聞こえました。

 1980年代からこの21世紀初頭にかけての日本の状況を現わす言葉として、「引き蘢り」が挙げられると思います。10代の半ばから40代に至るまでの沢山の人たちが、社会に出ることを止め、家に引き蘢っています。この「引き蘢り」の本質は、大人になることの拒否だと言えるのではないでしょうか。そして、それを可能にしているのは、日本の戦後の経済の成長です。日本人が喰うことの苦労から解放されていることです。40歳になっても引き蘢りが可能なのは、親が、40歳になった自分の子に食べさせてやるだけの経済的余裕をもっているからです。

 引き蘢りの本質は大人に成ることへの拒否だと言いましたが、言い替えれば、生きる意欲の喪失の現れであり、人間とは何かという問いへの答が得られないことから来る絶望感の現れである、とも言えるでしょう。

 このような問いに苦しんでいる人に、チョコレートは無力です。今こそ、教会は福音を裸で伝えなければなりません。「あなたは神様によって神様の愛の相手として造られたのです。神様はあなたが悔い改めて帰って来るのを待っておられます」と。