「人生真っ盛りを捧げて」

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」
 創世記12章4節に記された、アブラムの召命の記事です。

 この箇所は、よく、年老いたアブラムが神様の召命に従って、生まれ故郷を離れるという一代決意をしたという点が強調され、神様の召しに従うのは年齢に関係ない、という話として語られて来たように思います。私は、最近、これを違う角度から解釈するようになりました。即ち、アブラムにとって、この七十五歳という年齢は、彼の壮年期であり、人生の真っ盛りではなかったかということです。

 このように解釈する聖書的根拠が一つあります。それは、この箇所の少し前に、アブラムの父テラについて、「テラが七十歳になったとき、アブラム、ナホル、ハランが生まれた」(創世記11章26節)と記されています。当時、七十歳で子どもが生まれることがあるのですから、七十五歳というのは、人生の真っ盛りと言えるのではないでしょうか。

 アブラムは、人生の真っ盛りのときに、神様の召しを受けたのです。彼には、一人の人間としてこれからやりたいことが一杯あったでしょう。彼は、この神様の召しを聞いたとき、どのような気持ちだったでしょうか。人生これからという時です。まだまだやりたいことが沢山あるのです。聖書には、彼が淡々と神様の召しに従ったように記されていますが、果たしてそうだったのでしょうか。あのイサクを捧げるときもそうでしたが、聖書は、アブラムの心の中のことは何も記してはいません。しかし、彼の中には、いろいろな葛藤があったのではないでしょうか。自分のこれからの人生を大きく変えなければならないのです。不安もあったでしょう。無念さもあったでしょう。

 この3月、3名の方が神学校を卒業して牧師になられます。牧師になることを召命を受けるといいます。この3人の方は、このアブラムのような決意をして、召命を受けられたことと思います。即ち、自分の人生における夢と希望を敢えて捨てて、神様から与えられる人生を歩む決意を。その決意を実行に移すまでの準備の時、即ち、神学校における学びの時が終わり、いよいよ実践の時が近づいて来ました。人生の真っ盛りを捧げた者に、神様の祝福が豊かにありますように。