「罪の赦しとしての救い(その2)」

 自分の本心が神様を憎んでいるということに気付いたルーテルは、絶望します。絶望どころか、恐怖に陥ってしまいます。なぜなら、神様を憎んでいる自分の本心を、神様は見抜いておられることに気付いたからです。

 神様を愛するどころか返って憎んでいる、そのような自分を神様は天国へ迎えてくださるはずがない。天国へ迎えてくださらないどころか、自分こそが地獄へ行くべき人間だ。神様を憎んでいるんだから。

 ルーテルの恐怖は極限に達します。そのときです。彼に神様の声が聞こえてきます。「そのようなお前を、天国に迎える代わりに、私は、愛する私の独り子を十字架で滅ぼしたのだ」と。

 彼は、そのとき目が開かれます。何の罪もない神様の独り子がなぜ十字架に掛からねばならないのか。ルーテルは、初めてこの問うべき問いに気付いたのです。原因は、独り子にあるのではない。この私にある。私の神様への反逆にある。私の滅びに価する罪、神様に逆らうという罪を神様は私にではなく神様の御独り子に負わせられたのだ。それがあのイエス様の十字架の出来事なのだ。これが福音なのだ。聖書は、このことを語っているのだ。

 そう気付いたルーテルは、自分が、既に、神様の懐に抱かれているのを発見します。彼は、「そのとき、自分の目の前で、天国への扉が開くのを見た」と表現しています。 このようなルーテルに、最早、修道院は不要です。不要であるどころか、それは、十字架の出来事を無意味にする有害物です。彼は、早速、修道院を出ます。自分が修道院を出るだけでなく、他の修道士や修道尼にも修道院を出ることを勧めます。そして、女子修道院を出たカタリーナと結婚をします。

 これからが宗教改革の始まりです。彼の敵は、イエス様の十字架を無意味にする教えです。その教えの根本は、あの神人共働説です。彼は、この説と徹底的に戦います。この説の中に、罪認識の甘さを見ます。人の罪、人の神様への逆らいは、人がどのように償いをしようとも、償い得ないのです。あの神人共働説は、そのことに気付いていないのです。人の罪は、神様が赦してくださることによってしか、解決できないのです。

 神様は、人の罪を神様の独り子に負わせることで解決を図られます。そこには、神様の罪に対する義の姿勢と人間に対する愛の姿勢が貫かれています。信仰義認とは、このことを表わしています。(了)