「人は何のために生きるのか」
何年か前、北海道新聞に載った特集記事です。
15歳の少女がリストカットをしたと記者に打ち明けます。この記者は、不登校の生徒を対象にした教室でボランティアで数学を教えているとき、この少女に出会ったのだそうです。
少女は、自分がリストカットをした理由を語ります。「なんか、自分は生きてていいのかなぁ。いなくなった方がいいんじゃないのかなぁと思ったの。そしたら何も考えられなくなっちゃって。」
この少女に転機がありました。中学の卒業式に出席し、久しぶりにクラスメートと会いました。「高校受験してみて、少し自分に自信がついたみたい。」
高校合格発表の次の日、少女は記者に電話します。「高校生活が楽しみ。やればできるんだって初めて思った。親にも褒められましたよ。初めてかなぁ。」
それから二週間後、この少女はまた手首を切りました。「なんで、そんなことするの」と聞く記者に少女は答えます。「じゃぁ、何のために生きるのかな。生きる意味ってあるのかな。たくさん勉強したら、いいことあるの」と。
そして記事は次のように締め括られていました。「私は『ごめん。わからない』と答えるしかなかった」と。
生活協同組合運動を始めたあの有名な賀川豊彦は、自分が昔でいう妾の子だということで、自分の存在について悩んでいました。自分は望まれないで生まれてきた。自分には生きる資格なんかないんだという思いが若い彼を悩ませ、彼は自殺も考えました。しかし、ヨハネによる福音書第1章の12節と13節「しかし、言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じた人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」というこのみ言葉に出会ったとき、彼は初めて自分の存在を肯定することができました。
私たちがこの世を眺めている限り、私たちには、自分の生きる意味や目的は見えてきません。なぜなら、私たち人間は神様によって神様の喜びのために造られたからです。この神様との関係に立ち返ったとき、人は、何のために生きるのかを知ることができます。そのために、神様は私たちに道を開いてくださいました。私たち一人一人、「神によって生まれた」のです。