「新しい時の始まり(その3)」

 神様に背いたが故にほろぼされるべき存在に堕してしまった人間をなおもながらえさせてくださる神様。ここに、神様の本領が発揮されています。「神は愛です。」(ヨハネ第一4:16)

 では、愛とは何でしょうか。そもそも、愛という言葉は日本語にはない言葉であり、何かの訳ですから、愛を一般的に定義しようとしても無理があります。元のどのような意味の言葉を訳した愛なのかで、変わってくるからです。ギリシャ語のエロースもアガペーも同じく愛と訳されます。しかし、エロースとアガペーは明らかに違います。ですから、ここでは、「神は愛です」というときの愛とは何かを問うこととしたいと思います。この愛は、どう定義することができるでしょうか。私の一つの試みですが、次のように定義することができはしないでしょうか。即ち、愛とは、自己の全存在を注いで相手の存在を豊かにしようとする意思である。あるいは、愛とは、自己の全能力を発揮して相手の命の輝きを増そうとする意思である。

 愛という言葉は対概念ですから、愛するものと愛されるものが存在しなければなりません。実は、神は愛ですというときの愛の特徴は、愛するものと愛されるものとの関係を問わないところにあります。相手が例え敵であろうと、その相手の存在を豊かにしようとする意思、相手の命の輝きを増そうとする意思、それが神は愛ですというときの愛の意味です。即ち、この愛を知っている者には、既に敵はいないということです。ですから、「敵を愛し」(マタイ5:44)なさい、というイエス様の言葉は、「神は愛です」というときの愛に徹しなさいという意味として捉えなければなりません。

 そのような愛をもって人間に相対される神様は、この人間への愛を発揮して、神様に背いた人間を救われるのです。ですから、愛である神様が人間を救われるのは、神様の本質から自発的に出てくることなのです。即ち、人間は神様の恵みによって救われるのです。

 このような愛の神様、恵みの神様は、神様に逆らった人間を即座に救う決意をされます。相手があくまでも人間であることを、愛の相手であることを、自発性をもった存在であることを損なうことなく。ここに、神様の苦悩が伺われます。それは、自分に逆らったが故に自分から逃げようとする相手に、自分の恵みを届けるという矛盾を実行せんとする苦悩です。(続)