「新任牧師に贈る(その2)」

 聖書の内容を今日の時代状況に翻訳する作業が、牧師の中心的な職務です。この職務を全うすることは、至難の業です。しかし、そこには、こつがあります。それは、この福音書の個所で言えば、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見」抜くことです。一見、豊かに見え、幸福に見える家庭にも、必ず、家庭を崩壊しかねない問題が潜んでいます。「正しい人はいない。一人もいない」のです。問題を抱えていない家庭、問題を抱えていない人間などいるはずがありません。これは、時代を超えた事実です。何時の時代も、誰もが、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のです。この視点をしっかりと定めること、これが、今日の時代状況の中で、聖書の内容を活きた福音として語るこつです。

 さて、お二人が牧師としての第一歩を踏み出そうとしておられる今日の時代状況は、どのような特徴をもっているでしょうか。それは、「価値観の喪失」と捉えることができるのではないでしょうか。社会的な価値観が喪失されているだけでなく、個人的な価値観さえどこにも見つけることができなくなっているのが、今日の特徴のように思われます。

 日本では、明治以来、立身出世ということが社会的価値観として君臨して来たように思います。私もまた、そのような価値観の中で教育された一人です。

 東大に合格することを最高の目的とする当時の普通の高校で、「一年の時は東大を目指し、二年になれば九大に落とし、三年になって熊大でいいかと思い、一浪を人並みと読んで慰める」という戯れ歌を唱いながら青春を過ごしたものでした。しかし、今の若者に、「立身出世」は通用しません。これは、ある意味では、健全なことかも知れません。これが、今日の大人によって築かれた社会への批判であれば。

 立身出世を価値観にもった大人たちによって築かれた今日の社会は、果たして人間を幸福にしてくれているでしょうか。その答は、ノーです。少なくとも、今の若い人にとっては、ノーです。では、立身出世に替わる価値観を今日の社会は生み出しているでしょうか。残念ながら、これまた、ノーです。

 そして、さらに事態が深刻なのは、そこには、社会的価値観の喪失だけでなく、個人的な価値観の喪失が同居していることです。若者たちは、今、自分をどう捉えるべきか、自分は何者なのか、という人間が本来抱え込んでいた根源的問いの前で、立ち往生しています。社会は、この問いに応えてくれません。