「信仰義認(その1)」

 ルーテル教会の旗印は、「信仰義認」です。信仰義認とは、人は信仰によって神様から義と認められる、ということを意味します。義と認められるということは、言い換えれば、救われるということです。これは、マルチン・ルーテルが宗教改革を起こしたその動機に由来します。

 当時のローマ・カトリックは、人間が救われるためには、神と共にその人の働きが必要であると教えていました。神人共働説といいます。私が救われるためには、神様が救いの道を開いて下さると同時に、私自身がそれにふさわしい働きをしなければならないというのです。もし私が、自分の救いに必要な働きをすることができなければ、余分に働いた人の働きを買えばよい、教会は、その余分な働きをストックしている、というのです。こう言って売り出されたのが、一般に、免罪符と呼ばれているものです。

 ルーテルも、この教えに従って、一生懸命に働きました。いわゆる修行です。ルーテルは、当時、最も厳しい修行を行うと言われていたアウグスチヌス派の修道院に入って修行を重ねたのです。そして、彼はいっています。「もし人が、修行することによって救われるとすれば、自分が真っ先だろう」と。それほど、彼は厳しい修行を自分に課したのです。

 しかし、修行を積めば積むほど、ルーテルに見えてくるのは、自分の醜さ、傲慢さ、自己中心性でしかありませんでした。そして決定的なことは、彼は、自分の本心に気付くのです。その本心とは、自分は神様を憎んでいるということです。

 彼が修道院に入った直接の動機は、この世の名声ではなく、永遠の名声を得たい、ということでした。即ち、法律家になってこの世の名声を得たいと学問に励んでいたルーテルは、大学卒業直前に遭遇した友人の死や、自分自身の九死に一生を得た落雷体験等から、この世の名声ではなく、永遠の名声を得たい、つまり、天国を保証されたいと思うようになりました。そして、自分を天国に導いてくれる神様に仕えたいと修道院に入ったのでした。

 修道院で修行をしつつ彼の胸に去来するのは、神様はなぜこのような厳しい修行を自分に課すのか、という思いでした。神様を愛しているが故に、神様に仕える修行を喜んで行っていたつもりのルーテルでしたが、彼の本心は、神様を愛しているどころか、そのような厳しい修行を要求する神様を憎んでいたのです。(続)