「全聖徒主日に思う」

 今日は、全聖徒主日です。信仰を全うしてこの世を去った人たちを覚える日曜日です。ここで言う「聖徒」の「聖」とは、いや、キリスト教でいう「聖」とは、一体何を意味しているのでしょうか。

「聖」とは、きよい、とか、ただしい、という意味ですが、その基準はどこにあるのでしょうか。キリスト教ではその基準は、いうまでもなく神様の御心です。神様の御心に適ったものがきよいものであり、ただしいものである、というべきです。

 聖書には、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)とあります。神様の御心に適った人は一人もいない、というのが聖書が人間を見るときの見方です。となると、「全聖徒」等という言い方は、聖書的ではないということになってしまいそうです。聖書が、「正しい者はいない。一人もいない」と言っているのを承知の上で、私たちはなぜ敢えて「全聖徒」という言葉を遣うのでしょうか。

 キリスト教の本質は、「罪の赦しによる救い」(ルカ1:77)です。ここでは、人が罪人として処断されています。全ての人が罪人である、というのがキリスト教の前提です。その意味では、「正しい者はいない。一人もいない」ということはそのままキリスト教の本質に適っています。

 でも、これで終わりではありません。キリスト教は、ここから本領を発揮します。即ち、その罪の「赦し」が眼目だからです。キリスト教は、罪の赦しを一人一人に現実のものとする教えです。その教えを信じるとは、その赦しを受け入れ、その赦しに与かることです。

 私たち人間は、あくまでも罪人に過ぎません。罪人であるとは、神様に逆らっているということです。その人間から逆らわれている神様ご自身が、逆らっている人間のその逆らいを赦してくださっているのです。そうなると、最早、その人間の逆らいは逆らいとしての力をなくしてしまっています。効力のない逆らいです。

 神様の恵みによる赦しによって、私たちの神様への逆らいが逆らいでなくなってしまいました。その事実を信じ、受け入れ、自分のものとするとき、私たちは、御心に適った者として生きて行くことができるのです。そのとき私たちは聖徒なのです。