「ノンクリスチャンの死(その1)」

「****は、あなたを信じることを公に言い表し、み子の死と復活に与かる洗礼を受ける折を得ないで世をさりましたが、どうか人の心の奥底を見てくださる主の慈しみのうちに受け入れ、主の愛のみ旨を全うしてくださるようにお願いいたします。」

 これは、葬儀の式文の一部です。洗礼を受ける機会を得ることなく亡くなった人のための祈りです。

 私の母は、去年のクリスマスに初めてアーメンと唱えましたが、洗礼を受けることなく、5月9日に亡くなりました。母を洗礼に導くことができなかったことは、母のこの世での生をもっとすばらしいものにできたのにそれが叶わなかったこととして、悔しさが残りますが、母の永遠の救いについては、神様にお委ねして、安心しています。

 ヨハネによる福音書5章28,29節に「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」と記されています。善を行ったか悪を行ったかで、命を受けるか裁きを受けるかに分かれるというのです。

 また、聖書には、「正しい人はいない。一人もいない」ともあります。「正しい人」とは、善を行う人です。では、善を行う人は一人もいないということであれば、全ての人が、死後、神様のお定めになった時が来たとき、裁きを受けるために復活するのでしょうか。その裁きは一体どうなるのでしょうか。

 問題は、善とは何かです。善を行う人は一人もいないということが分かっていながら、善を行う者と悪を行う者に分かれることがあり得るのかということです。

 ヨハネによる福音書6章29節に「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」というイエス様の言葉が記されています。神の業即ち善とは、神様が救い主としてお遣わしになられたイエス様を救い主として信じることなのです。

 善とは、イエス様を救い主として信じることであり、悪とは、イエス様を救い主として信じないことです。その意味では、母はイエス様を救い主として信じた訳ではありませんので、悪を行ったということになり、裁きを受けるために復活することになります。問題は、その裁きです。その裁きにおいて、母がどう振る舞うかです。(続)