「微妙な表現「近づいた」」

 イエス様の宣教の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。私は、この「近づいた」という表現の中に、信仰の重要な要素が含まれているように思います。

「近づいた」という言葉は、まず第一に、何かがまさに成されようとしているという、完成間近しの意味を表わします。しかし、既に成し終えられたという意味ではなく、そこには厳然として未完の余地が残されています。これは、信仰のどのような事態を言い表しているのでしょうか。

 もう30年以上も前になるでしょうか。南方のある島から、一人の日本人が生還されました。この人は旧陸軍の将校でした。太平洋戦争に参戦し、上官の命令を受けてその島に潜入しました。その島で、軍人としての任務を果たしているうちに、日本の敗戦によって戦争は終わりました。それから30年間、その人は、依然として軍人としての任務を遂行し続けました。戦争が終わったことを知らない日本人がいるらしいということが分かり、救出しようということになりました。スピーカーで呼びかけたり、ビラをまいたりして、戦争が終わった事実を知らせました。しかし、その人は、なかなか島から出て来ようとはしませんでした。そのうち、その人と連絡が取れるようになり、その人の考えが分かりました。その人は、自分は上官の命令でこの島に来たので、その上官から命令が解除されない限り、島から出られない、と考えているということでした。終戦後30年も経ち、もう上官も部下もなかったのですが、かっての上官にわざわざその島まで出向いてもらい、命令を解除するという手続きを取って、やっとその人を島から救出することができました。

 事実として30年前に戦争は終わっていたのです。すでに、その人は、平和に囲まれていたのです。しかし、その人がそのことを受け入れない限り、その人にとっては依然として戦争状態が続いているのです。その人に平和が実現するためには、事実として平和になるだけでなく、その人がその平和を受け入れるというもう一つの要素が必要だったのです。

「神の国は近づいた」というときの「近づいた」の意味は、事実として神の国が私たちを取り囲んでいる。その神の国が自分にとって現実のものとなるためには、それを受け入れるという、人間の側が成すべき要素が残っているということです。