「神様による癒しを(その1)」

 カナダのウィニペグという所で、世界ルーテル連盟の第10回定期総会が開かれ、出席しました。今回は、「世界の癒しのために」という主題のもとに開かれました。世界が病んでいる実態をどう捉え、それに対してルーテル教会としてどう癒しの業を行っていくか、ということが、協議された訳です。

 北欧のようなルーテル教会が国教となっているところからの参加者もあれば、アフリカのある国のようなルーテル教会の牧師は4人しかいないというところからの参加者もありました。

 主題の「世界の癒しのために」に取り組むためには、まず、世界がどのように癒しを必要としているか、つまり、世界はどのように病んでいるか、どんなことが問題として取り上げられねばならないか、ということについて、共通理解が必要ですが、この点の共通理解を得ることが大変な作業でした。1つのテーマを取り上げても、地域によって、そのテーマに含まれる問題の内容が違うのです。

 例えば、「家族」ということをテーマにしても、ある地方では家庭内暴力が家族の最優先の課題であったり、ある地方では同性の結婚が家族の問題として緊急の課題であったり、ある地方では重婚の習慣が家族に関しての最大の問題であったりと、1つのテーマについても関心がなかなか1つにならないのです。

 そのような中で、私は、会の流れの中に1つの傾向が、しかも、由々しき傾向があるように感じました。それは、人権という言葉に脅かされているのではないかということです。いうまでもなく、人権は最大限に尊重されなければなりません。しかし、人権を尊重することと、神様の愛の中にあるということが、混同されているように思うのです。

 例えば、自分が同性愛者であることを告白した参加者がいましたが、その同性愛について人権という観点から承認を求められると、反対しにくいという空気に支配されてしまうのです。自分の同性愛を、性同一性障害として認知して欲しいということであれば、これには誰も異存はない訳ですが、自分の同性愛は、障害ではなく、自分の健康な意思によって選び取った行為である、その行為を人間の正当な行為として承認して欲しいと言われると疑問を持たざるを得ません。私たちは、人間の行為について、神様のみ心に適っているかどうかという観点を忘れてはならないからです。(続く)