「絶えざる宗教改革を(その2)」

 例えば、誰かから贈り物が来たとします。私たちは直ぐに、あの人がなぜこんな贈り物をしてきたんだろうと考えます。そして、ああ、あのときのお礼だな、と分かれば安心してその贈り物の荷を解きます。しかし、なぜ贈られてきたのか思い当たらないときには、その贈り物を受け取る気にはならないのではないでしょうか。ことほど左様に、人間というものは、報い、ギブアンドテイクという思いの虜になっています。

 神様が人間に向かって行ってくださった救いの業は、報いではなくて、徹底した恵みです。もし神様が、人間に恵みではなく報いで臨まれたならば、人間はどうなっていたでしょうか。人間は神様に逆らっています。その人間に神様が報いで臨まれるならば、人間には滅びしかありません。報いで臨むならば滅ぼすしかない人間に、神様は恵みで臨んでくださいました。この恵みをただ受け取ること、これが信仰です。ですから、行いではなく信仰によって救われるとは、人間の行いに対する神様の報いではなく、ただ神様の恵みによって救われる、ということです。ルターは、改めて、聖書の内容はそのことに尽きると確信したのです。宗教改革の3大原理として、恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ、と言われる所以がここにあります。

 ルターの宗教改革から後10年余りで500年になります。ルターが起こした宗教
改革は、神人共働説との闘いでした。それは、神様の出来事を人間の出来事に引きずり降ろすこととの闘いであり、恵みの出来事を報いの出来事に変質させることとの闘いでした。そしてこの恵みの出来事を報いの出来事に変質させることは人間の習い性ともいうべきことであり、いつでも起ることです。ですから、報いから恵みへという宗教改革は常に意識して起こして行かなければなりません。

 教会といえども人の集まりです。恵みよりも報いのほうが受け入れやすい人間の集まりです。教会も、恵みの論理ではなく報いの論理で運営されるという落とし穴にいつ落ち込むか分かりません。それ故に、私たちキリスト者は、報いを求める資格など自分にはないことを忘れないように、日々悔い改めることが必要です。私たちが悔い改める以前に、神様は既に私たちに恵みを与えてくださっています。

 人間の論理である報いの論理から、神様の論理である恵みの論理へ、常に改革がなされ続けなければなりません。(了)