「イエス様は全ての人の味方」

 近年、福音書の理解において、大変な誤解が生じているように思います。曰く、「イエス様は弱者の味方であった」。これは大変な誤解だと思います。確かに、イエス様当時も今と変わらず社会的な弱者と強者がいたのは事実です。そして、当時は、「地の民」と呼ばれ、自他共に、神様に見捨てられた存在として位置付けられていた人たちがいました。そして、イエス様は、そのような差別をされていた人たちから良く受け入れられました。だが、これをもってして、イエス様は弱者の味方、小さくされた者の味方、と見るのは誤りだと思います。

 イエス様は、人間を人間との関係の中で見ることはなさいませんでした。少なくとも、そこに、人間の決定的な問題を置くことはなさいませんでした。イエス様が問題とされたのは、人間と人間の関係ではなく、人間と神様の関係でした。

 キリスト教における救いは、「罪の赦しによる救い」(ルカ1:17)です。罪とは、人間の神様への反逆です。人間の全ての問題は、人間が神様に逆らっていることに由来します。そのことの解決を神様ご自身が実現された、ということが、キリスト教の内容です。

 私の人間としての問題は、確かに、私と他の人間との関係の中に現れますが、その根本原因は、私と神様との関係の破れにあるのです。そして、その破れをもたらした者は私自身であり、その破れを私は自分では修復できないのです。私がもたらしたにもかかわらず、私自身はそれを修復できない神様と私の関係の破れを、神様ご自身が修復してくださった。その神様のなさった業を受け入れることが信仰なのです。

 神様は、社会的弱者であろうと強者であろうと、自分の救いを受け入れる者のところへは喜んで来てくださいます。会堂長のヤイロは、決して弱者ではありませんでした。しかし、イエス様は彼の願いを聞き入れて、彼の娘の病を癒されました。

 私たちが何よりも見過ごしてならないことは、「地の民」と呼ばれていた人たちが、何を恐れていたかです。彼らは、人間としての差別を恐れていたのではなく、神様から見捨てられることを恐れていたのです。それ故に、「地の民」と呼ばれていた人たちは、自分たちに、神様から見捨てられた者としてではなく、神様から愛された者として関わってくださるイエス様を愛したのです。イエス様の愛は、全ての人に向けられています。