「『恵み』ということ」

 キリスト教はむつかしいと言われます。そのむつかしさは、キリスト教の本質から出てくるむつかしさだというのです。では、キリスト教の本質から出てくるむつかしさとは、一体、どういうむつかしさなのでしょうか。私は、それは、「恵み」のむつかしさではないかと思います。

 キリスト教の本質は、「罪の赦しによる救い」ということができますが、この罪の赦しは、赦されるべき人間が赦しに価することを何か行った見返りとして与えられるものではなく、赦してくださる神様の一方的な恵みによって与えられるものなのです。この一方的に与えられる恵み、ということが人間にはなかなか分からないのです。キリスト教の本質的なむつかしさは、この恵みが分からないという点にあるように思います。

 人間は、因果応報の世界に生きています。見返りの世界、報いの世界、遣り取りの世界、ギブ・アンド・テイクの世界が身に染み込んでいます。例えば、誰かから贈り物が届いたとします。それを手にしたときまず考えることは、誰がなぜ贈ってくれたか、ということです。そして、その贈り主と贈られてきた理由が、自分がその贈り主のために既に行ったことへのお礼のためだと分かれば、その贈り物を受け取る気持ちになります。その贈り物が、自分が既に行ったことへの見返りとして贈られてきた訳ですから、自分がそれを受け取ることに理由があると思えるからです。反対に、その理由が分からないときは、私たちはその贈り物を受け取る気にはなりません。相手に送り返してホッとする、というのが常ではないでしょうか。ことほど左様に、私たちは遣り取りに、ギブ・アンド・テイクにこだわるのです。

 私たちが神様に対して犯した罪、それは無限に深い罪です。これを赦して頂くために私たちが行うことができる何かがあるでしょうか。何もないのです。何も通用しないのです。罪の赦しを見返りとして頂くための行いを何もなし得ないとなれば、私たちの考えでは、最早、私たちは罪の赦しを断念する他はありません。これが、私たち人間の考え方です。

 恵みは、この考え方の外にあります。恵みは、何かの見返りとして与えられるものではないのです。恵みは、恵む者の自発的な意思によってなされるものです。恵みたいから恵む。それが恵みです。神様は私たちを赦したいから、赦しという恵みを与えられるのです。私たちはそれをただ受け取るだけです。この受け取ることを、信仰と呼ぶのです。