「マリアの喜び」

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)

 これは、マリアが天使から受胎を告知されたとき、天使に応えて言った言葉です。このマリアの言葉には、万感の思いが込められているように思います。まだ婚約の身です。許嫁のヨセフは何と思うだろうか。いや、人の良いヨセフは許してくれるとしても、世間は何と言うだろうか。掟を破ったふしだらな女として石打ちの刑に処せられるのではないだろうか。自分の将来に何一つ益になるとは思われない天使のお告げ。思えば思うほど、不安が増すばかりです。そのような不安の中にも、マリアは、神様の御業を身に受ける決意をします。その決意の現れがあの言葉となったのです。

 そのマリアが歌います。
 「わたしの魂は主をあがめ、
  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
  身分の低い、この主のはしためにも
    目を留めてくださったからです。
  今から後、いつの世の人も
    わたしを幸いな者と言うでしょう、
  力ある方が
    わたしに偉大なことをなさいましたから。
  その御名は尊く、
  その憐れみは代々に限りなく、
  主を畏れる者に及びます。」(ルカ1:47〜50)
 ここには、神様の業を身に受ける決意をした者の揺るぎない喜びが現れています。

 カトリック教会では、マリアは聖母として特別な存在とみなされています。しかし、マリアが天使に応えたあの言葉や、このマリアの歌を聞くとき、見えてくるのは、一人の平凡な女が神様に用いられるときの姿そのままではないでしょうか。そこには当然、怖れと戸惑いがあります。逃げたい気持が支配します。しかし、それを乗り越えさせてくださるの神様ご自身です。そして、神様によってその怖れや不安を乗り越えさせて頂いたとき、そこには、言い知れぬ平安と喜びがあります。

 マリアという平凡な女を、神様は御業を成すために用いられました。マリアは、神様に用いられる喜びを味わっています。