「生かされてある(その2)」

 聖書には、イエス様が5つのパンと2匹の魚を大勢の群衆に食べさせられた奇跡が記されていますが、このときも、群衆の数については、「女と子供を別にして、男が5千人ほどであった」と、成人の男、つまり、戦いの要員と成り得る者しか数えられていません。これが、当時のイスラエルの人間観ともいうべきものだったのです。ですから、弟子たちが幼い子どもたちに対して取ったあの態度は、当然のことであったのです。

 この弟子たちに対して、イエス様は憤っておられます。イエス様の人間に対する見方は、弟子たちの、つまりは当時のイスラエルの人間に対する見方と違っていたということです。

 イエス様は、人間の存在の意味を、戦いの要員に成れるかどうかで見分けたりはなさいません。その人間が何かできるかできないかで見分けたりもなさいません。イエス様は、人間は存在することそのものに意味がある、という見方をしておられます。それ故に、幼子を喜んで祝福されるのです。

 私たちは、自分も含め、何らかの意味で社会に役立つことを人間の条件としてはいないでしょうか。そして、その無意識の気持は、自分に向かうとき自信喪失になり、他者に向かうとき、介護を必要とする人等への差別になったりしがちです。

 イエス様は、幼い子どもたちを、社会的には何ら生産要員として期待できない者たちを、祝福してくださいました。子どもたちの将来に期待して、将来の社会的生産要員として祝福されたのではありません。子どもとしての存在そのものを祝福しておられるのです。それは、イエス様が、「神の国はこのような者たちのものである」と言っておられることからも明らかです。

 私の母の呟き、「これまで一つも良いことは無かった」というこの言葉には、自分の人生に納得のいかない無念さがあるように思います。母が、自分の人生に納得がいかないのは、母の中に、やはり、何かの役に立ってはじめて一人前の人間という固定観念があったからではないでしょうか。

 甥が母の葬儀に際して言った、「おばあちゃんに会うとホッとする」という言葉は、母が何もできなくても母の存在に意味があるということを言い表わしています。
 全ての人間の存在そのものに意味がある。それが、幼子を祝福してくださったイエス様のお気持ではないでしょうか。人は、自覚するしないに関わらず、常に生かされてあるのです。(了)