「住職という制度」

「住職」という言葉があります。仏教用語といってよいのでしょうか。僧侶でお寺の責任者です。教会でいえば主任牧師に当たる方です。

 この言葉がどのようにして生まれたのか全く知りませんが、僧侶としてお寺に住みついて、そこの責任者としての働きをされるという意味があるのだと思います。私は、この「住職」の「住」に注目したいのです。

 今年も、教会の人事の季節がやって来ました。明日から2005年4月1日発令の牧師人事に関する協議が始まります。方策人事、これが目指す人事です。だが、残念なことには、大抵、対策人事に終わってしまいます。牧師不足に対する対策、牧師と信徒のトラブル解消対策。この二つで、人事が決まってしまうと言っても過言ではないでしょう。特に、牧師と信徒のトラブルは大きな問題です。私の経験では、毎年どこかで、この問題が起こっています。しかも深刻な様相を呈して。

 この牧師と信徒のトラブルの原因は、私は、牧師に「住」という概念がないことではないかと、密かに考えています。牧師と信徒のトラブルは、大概、牧師の転任という仕方で解決が図られてきました。解決が図られてはきましたが、一つもといっていいほど、真の解決は得られていません。その証拠に、大体、そのような牧師は、ほとんどが、転任先で同じトラブルを引き起こしているのです。ですから、本当にこの問題を解決しようと思えば、転任という方法を採らないことです。そこには2つの道しかありません。そこで牧師を続けるか、牧師を辞めるかです。ここに「住」の概念が登場します。

 教会の牧師に「住職」という制度があったらどうでしょうか。牧師は、信徒とトラブルを起こしてもよそに転任する訳にはいきませんから、そのトラブルを自力で解決するか、牧師を辞めるかしか道はありません。このようないわば背水の陣という感覚が牧師に欠けていることが、信徒とのトラブルを生み出す素地なのではないかと思うのです。

 自分が今牧会をしている教会で一生牧会を続ける。自分が伝道をしている町や村で一生伝道を続ける。そういう制度であれば、牧師の伝道や牧会に関わる姿勢も自ずと変わってくるでしょう。

 牧師というのは職業ではなく、生き方であるという観点こそ、今、牧師に求められているように思います。