「神様と人間と悪魔」

 神様は、なぜ、食べてはならない実をならせる木を、エデンの園に植えられたのか。その木の実を食べたことによって、人間の世界に罪が入り込んだというならば、その責任は、その木を植えられた神様にあるのではないか。おまけに、その木の実を食べるように人間をそそのかす悪魔まで神様はお造りになられるとは。神様は、一体、人間をどうしようと思ってお造りになられたのだろうか。これは、人間、誰もが抱く疑問ではないでしょうか。

 そもそも、神様はなぜ人間をお造りになられたのでしょうか。それは、ご自身が神であることを楽しむためである、ということができます。聖書には、「神は愛である」とありますが、神様は、ご自身の愛を発動させることによって、ご自身が神であることを楽しまれるのです。その愛の相手として人間をお造りになられたのです。

 では、愛とは何でしょうか。いろいろな定義の仕方があるでしょうが、次のような定義は如何でしょうか。愛とは、己の全てを注いで相手の生を豊かにすることである。この定義の中には、愛は、自発的に相手に向かうものであり、相手の価値によって引き出されるものではないという意味が含まれています。相手の価値によって引き出されるとなると、その価値次第で己の注ぎ方が左右されるからです。この自発性ということが、愛には不可欠です。自発性が愛の命です。

 この愛には、不思議な面があります。愛は愛を求めるということです。本物の愛は、愛が返って来ないとき、それは怒りに変わります。愛が返ってこなくても怒りに変わらないならば、それは本物の愛とはいえません。愛で愛を返すとは、その愛を喜んで受けるということです。

 神様と人間の間に愛が成り立つためには、神様によって造られた人間が、神様に対して自発的でなければなりません。即ち、人間が神様に対して自由であるということです。自由であるとは、従う能力も逆らう能力ももっているということです。人間の逆らう能力を刺激する存在として悪魔が造られたのです。

 悪魔がいなければ、人間は神様に対してロボットになってしまいます。ロボットは愛の相手にはなりません。神様は愛の相手として人間を造られました。神様は、人間が神様と悪魔の間で自由に決断して神様の方に歩んで来ることを喜ばれるのです。