「キリスト教の愛」

「苦しいときの愛頼み」とは、ある牧師の口癖である。説教の題に困ったとき、愛を遣えば何とかなるのがキリスト教の説教だということである。なるほど、そう言えば、キリスト教は愛の宗教だと言われている。

 それでは、愛とは何か。われわれは、それが分かっているのだろうか。愛とか愛するという言葉は、私たち日本人の心を直接に言い表す言葉なのだろうか。いや、私たち日本人には、この愛という言葉に相当する心があるのだろうか。

 私たち日本人には、好きという言葉は分かる。私はあなたが好きです、という言い方は、私たちの心そのままを言い表す。だが、私はあなたを愛します、という言い方は、一体、私たちのどのような心を言い表そうとするのだろうか。

 愛という言葉は漢字の音読みである。古典に「虫愛ずる姫君」という物語があるが、この愛という漢字は訓読みとしては「めずる」という日本語の表現に用いられる。めずるとは、かわいがるということである。上位のものが下位のものを自分の心の慰めにいとおしむ、ということである。だが、愛という漢字を「あい」と読むとき、めずるということとは違った意味が込められているように思う。聖書もその違った意味で用いているように思う。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちはアガペーを知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(ヨハネ第一3:16)」ここに、わたしたちはアガペーを知ったと記されている。今まで知らなかったアガペーを、神様の独り子イエス様が、神様の敵である私たち人間のために命を捨てて下さったことによって、私たちは知ったというのである。このアガペーが愛と訳されているのである。

 愛は、私たちの心に自然に起ってくるものではない。私たちの心には、敵のために命を捨てようという思いなど湧いてはこない。愛は、感情に関わることではなく、意思に関わることである。決意の問題である。相手が自分に向かってどのように振る舞って来るかにかかわりなく、相手のために自分の命をも差し出す。それが愛である。人間にとっては未知のことである。

 キリスト教は愛の宗教であるとは、人間が知らなかった新しい世界がキリストによって創造されていることを意味している。