「神様による癒しを(その2)」

 この世は病んでいます。それは、いろいろな様相となって現われています。しかし、その根本原因は唯一つなのではないでしょうか。即ち、人間の神様への反逆です。

 人間の神様への反逆というのは、人間が神様抜きで存在しようとすることです。人間が神様抜きで存在しようとすることがなぜ神様への反逆かというと、そもそも人間は、神様によって神様の愛の相手として造られたものだからです。人間が神様の愛の相手として神様の愛に愛をもって応えるとき、人間としての正しい生き方があります。いわば、人間は神様のための存在であり、神様のための存在であるとき、人間自身も生きる意味と喜びを味わうことができるのです。その人間が、神様を抜きに生きて行こうとすることは、人間が己自身のために生きようとすることであり、己を神様の位置に据えることに外なりません。ここに、神様への反逆の実態があります。そのような神様への反逆という実態を持ちながら生きているのが私たち人間であることは、聖書の示す通りです。

 同性愛は、それが性同一性障害でない限り、明らかに罪の現れです。なぜなら、聖書に明確に指摘されているからです。ただ、私たちは、罪から逃れられない罪人に過ぎません。同性愛は罪だというだけで、それを避けることができる訳ではありません。ここに私たちの憐れな姿があります。罪を犯す現実があります。だが、その罪の現実を、人権を盾に、人間の当然の姿として主張することができるでしょうか。そう主張することを、キリスト教を信じる者として承認すべきでしょうか。

 宣教というのは、人間の人間回復ではなく、神様の神回復です。人間が神様を無視して生き始めたことによって、神様は神としての喜びを喪失されました。その喪失された神としての喜びを取り戻し、ご自身を神として回復するために、神様が人間に介入されること、これが宣教です。

 人間が、罪の中に留まっている限り、神様には神としての喜びは起こりません。神様は必死の思いで、人間を罪から解放されます。それは、まず、罪の赦しとして起こります。その罪の赦しは、人間の悔い改めとして人間に内実化します。悔い改めとは、自己の罪を自力では克服できないことへの嘆きです。その嘆きを嘆くとき、御子の十字架がその人の救いとなります。

 この嘆きの中では、神様の愛が人権を凌駕します。(了