「待ちの姿勢から打って出る姿勢へ」

 今、教会の伝道の不振が言われています。原因はどこにあるのでしょうか。なかなか答えが見出せないでいます。

 私は、その原因を、教会の待ちの姿勢に見ています。

 待ちの姿勢とは、文字通り、教会に来る人を待っているだけの姿勢ということです。何らかの理由で自分から教会へ行こうと思ってやって来る人を待っているだけの姿勢だということです。教会が、教会に集まって来る人だけしか相手にしていないということです。すなわち、教会の外の人に向けて、メッセージを発信していないということです。福音という宝が教会の中に埋もれてしまっているということです。

 これに対して、次のような反論がなされます。教会に集う信徒が、教会で養われ、教会の外で信徒として生きて行く中で、その信徒の生き方を通して、福音が教会の外へ伝えられる。信徒の生き方そのものが、教会の外へ向けてのメッセージである、と。これは、もっともな意見です。しかし、ここには、人間と神様との関係に潜む重大な事実が見落とされているように思います。それは、人間は神様に逆らう存在であるということです。

 人は、幸福を求めて生きています。その幸福ということと、キリスト教が福音として人に実現しようとしていることとは、その本質において異なっています。人が求める幸福の本質は、自己の欲望の実現です。これに対して、福音の本質は、人が神様の愛の相手として回復されることです。神様の愛の相手とは、言い替えれば、神様に仕える者ということです。神様に仕えることが生きる喜びであるという生き方が回復すること、それが福音がその人に実現したということです。

 幸福を求めて生きている人間に、福音を実現するということは、人間が求めてはいないものを人間に実現することに他なりません。これはある意味では闘いです。人間の持っている幸福追求意識を否定し、求めてはいない福音の不可欠性を伝えること、それは、相手の価値観の変更を迫ることだからです。

 信徒が、教会で養われ、福音に生きる姿をこの世で示しても、幸福追求にしか関心のないこの世の人には何の魅力もありません。ここに、伝道すなわち福音実現が待ちの姿勢では成り立たない所以があります。伝道がその本質において闘いであるという観点に立った打って出るノウハウが、今求められています。そのノウハウの基本は、「仕える」ということだと思います。