「宅間守死刑囚のために祈る」

 大阪の小学校に刃物を持って乱入し、8名の児童の命を奪い、大阪地裁で死刑の判決を受けた宅間守被告が、弁護団が行った高裁への控訴を自ら取り下げたため、彼の死刑の判決が確定し、彼は被告から死刑囚になった。自ら死刑を望んだ彼は、今、どのような気持ちで時を過ごしているのだろうか。

 新聞で報道された弁護団の話によれば、彼は、「裁判長に『退廷』と言われた瞬間、『これで楽できる』と思った」「死ぬことは正直、わしにとって一番の快楽だと思う」という感想を手紙に記しているそうである。

 彼に殺された8名の児童の命が、今、神様のふところで安らかに憩っていることを信じつつ、私は、彼のために祈りたい。神様の救いの業が彼の上に実現しますように、と。

 私は、彼に知って欲しい。神様の独り子イエス・キリストは、あなたのためにも十字架にかかられたのだ、ということを。神様は、あなたが悔い改めてその十字架による救いを受け入れることを待っておられる、ということを。あなたが神様の愛を拒み続け、自ら地獄を造りだすことは神様のみ心ではない、ということを。神様は、必死であなたを愛しておられる、ということを。

 彼は、日本の法律によって命が断たれることが決まった。だが、彼は神様から見捨てられた訳ではない。神様は誰一人見捨てたりはなさらない。人は、己の神様への反逆という大罪を認め、それを悔い改め、神様がその独り子の十字架によってその罪の救いを成し遂げて下さったことを信じることによって救われる。救われるとは、神様と共に永遠に生きることができるということである。

 彼は、彼にとって死ぬことは一番の快楽だと思っているようである。しかし、彼は重大なことに気付いていない。それは、死が最後ではないということである。人は、あのイエス・キリストの十字架が自分を救うための神様の業であるということを信じるか否かという問いの前に、いつかは立たなければならない。もし、この世に生きている間にその問いに答えなければ、死の後に、その問いに答えなければならない。

 神様は、神様ご自身がお造りになられた宅間守という一つの命が滅びることを望んではおられない。その命が悔い改めて神様の元に帰って来るのを待っておられる。私はその実現を祈る。