「インマヌエルとは」

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

「神は我々と共におられる」とは、この世の歴史が神によって支配されているということです。この世の出来事は、全て神のみ心の中にあるということです。

 ここで疑問が起こります。人間にとって不幸な出来事も神が起こされたことなのか、という疑問です。この疑問を解くためには、そもそも人間は神にとってどういう意味をもった存在なのかを知らなければなりません。

 神にとって人間は愛の相手なのです。人間は神によって造られた存在ですが、他の造られた存在と違って、愛の相手として造られたのです。即ち、人間は、神との間に愛が成り立つために特別な能力が与えられています。

 二者の間に愛が成り立つためには、その二者はお互いに自由でなければなりません。自由であるとは、相手に従うことも逆らうこともできるということです。神は、人間を神の愛の相手として造られたとき、その愛を成り立たせるために、人間に自由をお与えになられました。即ち、神は、人間を、神に従う能力も逆らう能力ももった存在として造られました。

 人間が、この二つの能力を与えられた中で、神に従う能力を発揮している限り、人間にとっての不幸は生じません。しかし、人間は、この二つの能力の中の、神に逆らう能力を行使したのです。そのことが人間にとっての不幸を引き起こしたのです。

 人間から神に逆らう能力を取り上げれば、人間は不幸にはなりません。しかし、人間から神に逆らう能力を取り上げれば、人間は神に対して自由ではなくなります。つまりは、人間は、そのとき、神の愛の相手ではなくなるということです。

 神は我々と共におられるというのは、神は神に逆らう能力を人間から取り上げることなく、その逆らいによって人間が自ら生じた不幸も神が背負ってくださるということです。神は人間をあくまでも神の愛の相手として位置付けてくださいます。人間から神に逆らう能力を取り上げたりはなさいません。その逆らいによって生じた不幸も神ご自身が身に引き受けてくださいます。それが、神は我々と共におられるという意味なのです。