「服喪期間?に年賀状を頂いて」

 今年の正月、何人のお方から年賀状を頂くだろうかと、楽しみにしていましたところ、例年の半分ほどの方から頂きました。と申しますのは、昨年の5月に母が帰天致しましたが、年賀欠礼のご挨拶状を出さなかったからです。十数年前、妻の父が帰天した年、慣習に従って年賀欠礼の挨拶状を出したところ、年賀状を数枚しか頂かなくて寂しい思いをしました。やはり、新年には年賀状が欲しいという思いで、この度は、こちらから先に出すことはしませんでしたが、頂いた方にはお出しすることにしようと、年賀欠礼の挨拶状は出さなかったのです。

「喪に服す」という言葉があります。「喪」とは、親族の死を悲しみ憂えて家に篭ることだそうです。この文字通りの意味では、私は一日も喪に服さなかった、と言わざるを得ません。あわただしく動き回って葬儀をすませるや否や、一週間も経ない内に仕事に戻っています。そもそも、私には、母の帰天を悲しみ憂えて家に篭る気持など最初からないのです。92歳までこの世を過ごした母の帰天は、まさに、天国への凱旋だと思っています。寂しい思いはしましたが、母は堂々と天国に凱旋したんだと思うと、悲しみとか憂える気持は少しもありませんでした。そのような私には、新しい年を迎えることを祝わずにいることは、何か無理をしているように思えるのです。素直に、「明けましておめでとうございます」と言いたいのです。慣習に負けて、年賀状を出さなかったことを悔いているくらいです。

 聖書に次のような話があります。「弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』」

 イエス様の姿勢はあくまでも前向きです。死を見つめるよりも生きることを見つめておられます。私たちも又、かくありたいものです。その秘訣はどこにあるのでしょうか。それは、死は終わりではないことを知ることです。私が、母の死を寂しいけれど悲しくはないと思えるのは、私の中に、再び母と会えるという信仰があるからです。

 喪に服すことは信仰的ではない、とは申しません。子どもが亡くなったときと、高齢の親が亡くなったときとでは事情が違うでしょう。喪に服すか否かは、その人次第ということで良いのではないでしょうか。