「福音の神髄」

「聖書には、『あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である』と書いてあります。さあ、皆さん、皆さんのこの一週間の生活を振り返ってみてください。果たして、地の塩、世の光にふさわしい生活だったでしょうか。」わたしはこのような説教を聞きながら、一週間を振り返り、地の塩、世の光にふさわしくない自分しか見出せず、「自分には、まだまだ神様の前に出る資格はない。もっと頑張らなければ」という思いに駆り立てられていました。

 その同じ聖句をテキストに、ルーテル教会で聞いた説教は違っていました。「ここには、『あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である』と書いてあります。地の塩になれではありません。世の光になれでもありません。地の塩である、世の光であると書かれているのです。これが神様のみ言葉です。ひるがえって、私たちは自分を見つめるとき、自分は決して地の塩でもなければ世の光でもないことを認めざるを得ません。これが人間の現実です。神様のみ言葉と人間の現実との闘いです。勝負は決まっています。」これが、私がルーテル教会で聞いた説教でした。

 私は、今でも覚えています。この説教を聞いたとき、温かいものが、私の身体の芯から身体全体に広がって行ったのを。私の心に、「明日もこのままの自分で生きて行っていいんだ。神様がこのままの自分を受け入れてくださっているんだ」という思いが湧いて来たことを。そして、そのとき私は思いました。「これが福音なのだ」と。

 キリスト教の内容は、「罪の赦しによる救い」であるといわれます。それは、神様に従うことのできないこの私が、つまり、罪人でしかないこの私が、従わないままで、つまり、罪人のままで、神様に受け入れられている、ということです。神様に受け入れられているから、この私が既に地の塩、世の光なのです。私が、地の塩、世の光にふさわしくなったから、神様に受け入れられた、というのではないのです。

 私は自分を見る限り、自分は地の塩でもなければ世の光でもないことを告白せざるを得ません。その私に、神様は、「あなたは地の塩、世の光である」と言ってくださるのです。私が地の塩、世の光であることの責任を、神様ご自身が取ってくださるのです。これが福音です。この福音を受け入れること、それが信仰です。