「最も大いなるもの」

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント第一13:13)

 これは意外な言葉です。そう思うのは、私だけではないのではないでしょうか。特に、私たちルーテル教会の者には、意外な感じがするのではないでしょうか。なぜなら、私たちルーテル教会の看板の一つは、「信仰のみ」だからです。

 宗教改革におけるルターと当時のローマカトリック教会との論争点は、救いに信仰以外のものを必要とするか否かでした。ルターは信仰のみに固執しました。神様の恵みが人に信仰を起こし、その信仰が救いを実現する。そのような信仰の規範となるのは聖書のみである。これが、ルターから始まった宗教改革の三大原理として、恵みのみ、信仰のみ、聖書のみが挙げられる所以です。

 そのような訳で、私たちルーテル教会の者にとっては、信仰が最大のものという印象がいつの間にか心に刻み込まれています。ですから、「最も大いなるものは愛である」と言われると、意外に思わざるを得ないのだと思います。

 神様は、ご自身の愛の相手として人を創造されました。この神様の愛の相手であるということ、このことだけが、人が生きる目的であり、このことだけに人が生きる意味があります。

 では、ここでいう愛とは一体何なのでしょうか。愛するとはどういうことなのでしょうか。愛はどのように定義されるのでしょうか。私は、愛は次のように定義することができるのではないかと思っています。即ち、愛とは、己の全存在を注いで相手の命を輝かすことである、と。

 母親は、おっぱいを力強く吸っている赤ちゃんの笑顔を眺めているときが一番幸福なのではないでしょうか。赤ちゃんは、笑顔でおっぱいを力強く吸うことで、母親の命を輝かせています。即ち、このとき赤ちゃんは母親を愛しているのです。人が神様を愛するということは、それと同じだと思います。神様の恵みによって活き活きと生きる。そのことが、人が神様を愛することなのです。

 しかし、人はその神様に背を向けて生き始めました。神様と人との愛の関係は人によって破壊されました。信仰はこの破壊された愛の関係を、神様が回復してくださるための手段に過ぎません。

 最も大いなるもの、それは、このような意味で、愛なのです。