「新任牧師に贈る(その3)」

 若者たちの今日の社会に対する失望感は深刻です。その現れが、引き蘢りであり、フリーターではないでしょうか。引き蘢りやフリーターの本質は、単なる無気力の言い訳に過ぎないものもあるでしょうが、そこには、若者の真剣は主張があるように思われます。即ち、それは、大人の作り出した社会に組み入れられることへの拒否であり、自分も、意味の見出せない社会を造ってします人間になることの拒否と、言えるのではないでしょうか。

 考えてみますと、自分は何者かという、人間の根源的な問いが、裸で露出しているということは、社会の病的現象として捉えるべきことではなく、むしろ、ようやく人間が本来の人間に立ち戻るための必要な問いを問い始めたこととして、積極的に捉えるべきことかも知れません。つまり、人類は、ようやく、自ら、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ひしがれている」自分であることに気付き始めたということです。今日の時代状況、即ち、科学文明の発達により、衣食が足りている状況が、人間がこれまで抱え込んでいながらも気付かなかった自分の存在の意味を問う根源的な問いに、気付かせてくれたのです。

 この問いへの答は、このイエス様の群衆を見られるその見方の中に潜んでいます。即ち、「飼い主のいない羊のように」とありますが、これを、「飼い主のいない羊であるが故に」と読み替えることによって、その答が浮かび上がって来ます。即ち、「群衆は、飼い主がいない羊」であるが故に、「弱り果て、打ひしがれている」のです。今日の若者は、社会的価値観と個人的価値観の喪失の中で、人類が「飼い主のいない羊であるが故に」生きることに行き詰まっているといことを、浮かび上がらせてくれたのです。飼い主とは、いうまでもなく、神様でありイエス・キリストご自身です。

 今、人類は、自らが飼い主のいない羊であることに気付き始めました。人類が根源的に抱え込んでいる問題は、飼い主に出会うことによってしか、解決できない問題です。人は、現実の生活の中で、多種多様な問題に直面し、生きることに行き詰まってしまっています。

 まさに、今こそ、飼い主の登場の時です。現代に生きる人間の問題を、それがどのような問題として現われ出るにせよ、その問題を深め、イエス・キリストの十字架と復活によって既に回答が与えられている問題に帰着させること、それが、牧師が牧師として働くことです。

 聖書には、「折が良くても悪くても」とありますが、この世の状況を見る限り、折は常に最悪です。しかし、私たちが取り組むことは御言葉を宣べ伝えることです。これは、神様ご自身の業です。そこに、私たちの希望があります。神様ご自身のみ業であるが故に、折は常に最良なのです。この働きは祝福に満ちた働きです。御言葉を宣べ伝たえる業に、希望をもって、共に、励んで参りましょう。