「アジアルーテル国際協議会に出席して(その2)」

 次に、グローバル化に対する貧困の問題ですが、これは、宗教の内容の問題というよりは、宗教がこの世にどのように関わっていくべきかという、キリスト者のこの世への関わり方の問題として提起されました。

 グローバル化というのは、地球規模化とでも訳したらいいのでしょうか。文明の発達によって、いわば地球の経済的半径が小さくなりました。タイから日本には5時間ほどで来られます。つまり、あらゆる事柄が地球規模でたやすく行われるようになったのです。これは、キリスト教にとってはありがたいことです。なぜなら、私たちは、福音を地の果てまで宣べ伝えなければならないからです。ではどうして、そのような意味のグローバル化が問題になるのでしょうか。これもまたグローバル化そのものの問題というのではなく、それが、貧困を引き起こす、あるいは貧富の差を拡大させるということに問題がある訳です。

 ある高度の文明の中で育ったある商品が、その文明の背景のない国で、その商品単独でいともたやすく製造され販売さるようになりました。その商品がそれを生み出した文明の背景の中で製造され消費される分には、消費のバランスが保たれ問題は起きませんが、その背景のない国で、その商品だけが単独に製造され消費されるとき、消費のバランスが崩れ、その国の経済が疲弊してしまう、つまり、貧困が発生したり、貧富の差の拡大が起るのです。

 例えば、アジアのある国では、アメリカのある清涼飲料水の会社が工場を造り、大量に飲料水を使うようになり、飲料水の値段がその会社で作り出す清涼飲料水の値段より高くなったため、水を飲むよりその清涼飲料水を飲むことが多くなり、その結果、虫歯が増えたり、糖尿病患者が増えたりしているとのことでした。

 清涼飲料水を製造するという文明は、飲料水を安価に供給できるという文明を背景に成り立つ訳ですが、そのことが無視されているのです。このような無視は、資本の論理が支配しているこの世では、意図的になされます。このようなこの世の事態にキリスト教はどのように対処すべきでしょか。

 原理主義の問題もグローバル化の問題も、突き詰めれば、自己と他者との関係の問題に帰します。自己を他者のための存在として位置付けることによってのみ、解決できる問題です。難問中の難問です。キリストの愛の地球規模での実践、それ以外に解決はありません。地球規模で福音を実現させるのみです。(了)