「律法の働き」

 イエス様は、安息日に病気を癒されました。それは、ファリサイ派の人たちにとっては、律法の無視にしか思えませんでした。そのイエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17、18)と言っておられます。

 イエス様が、安息日に病気を癒された行為は、形の上では律法を破ることです。ですから、律法に忠実に生きていると自負しているファリサイ派の人たちから攻撃されることとなりました。しかし、イエス様は、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言っておられます。一体、私たちは律法に対してどう向かい合うべきなのでしょうか。

 その答えを私たちは、ルカによる福音書の18章9節から14節のイエス様の喩え話に見い出すことができるように思います。

 イエス様は、自分は律法をしっかり守りながら生きていますと言わんばかりの祈りをささげたファリサイ派の人ではなく、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うことしかできなかった徴税人の方が、神様から義とされたと、言っておられます。

 私たちが律法を一点一画もおろそかにすることなく生きて行こうとするとき、私たちは自分が身動きが取れなくなることを見い出すべきです。例えば、「殺すなかれ」という律法に対して、私たちは正々堂々と向かい合うことができるでしょうか。確かに、生理学的な意味で私たちは人の息の根を止めるということはしていない点で、この「殺すなかれ」という律法は守っているということができるかも知れません。しかし、人を殺すとはどういうことでしょうか。息の根の止めることがなくても、私たちが誰かに「あいつなんかいなければいいのに」という思いをもったとき、私たちはそのことで既に殺人を犯していることにならないでしょか。なぜなら、私たちが憎しみを覚えるその人も、神様にとってはかけがえのない愛すべき我が子なのですから。

 私たちは、律法の一点一画もおろそかにすることなく生きて行こうとするとき、一歩も前に進めない自分を見い出さざるを得ません。このことに気付かせてくれることこそ、律法の働きです。