「主の十字架の意味」

 今週は受難集です。イエス様の十字架の意味を、自分自身に即して考え、味わう時です。

 教会には避けることのできない躓きがある、と言われます。それはどういうことかと言うと、人は何らかの意味で被害者としての慰めを求めて教会に来ますが、教会はそのような人に、その人が加害者であることに気付かせようとします。このとき、躓きが起こるのです。「あの牧師は、私の弱さを分かってくれない」とか、「あの牧師は、私の人格まで否定しようとする」とかいった牧師批判は、躓きの現れとしてよく起こることです。ここで妥協がなされては、教会が与えようとする恵みをその人に与えることはできません。教会は、牧師は、徹底してこの批判と闘います。その人を本当の福音に与らせるためです。

 キリスト教は、「罪の赦しによる救い」(ルカ1:77)を実現せんとするものです。即ち、自分が罪人であるという自覚が、その前提として必要です。罪人とは加害者ということです。加害者として苦しむ者を赦すことによって救うのがキリスト教です。ですから、自分が被害者意識に凝り固まっていては、つまり、自分の加害者性に気付かなければ、それに苦しまなければ、キリスト教とは無関係となります。

 ルターの偉大さは、この自分の加害者性に苦しんだことにあると思います。その加害者性の最大の被害者が神様だと彼は気付くのです。彼は、天国を目指して修行を積む中で、このような厳しい修行を課す神を憎んでいる自分に気付くのです。神がいなければどんなに楽だろうという思いが自分の本心であることに気付いて愕然とするのです。神を否定している自分は神によって滅ぼされて当然だ、と気付いたとき、彼は、絶望するのです。その絶望の中で、「そのあなたを赦し、滅びから救うために、あなたに代えて我が子を十字架につけた」という神様の声を彼は聞くのです。これが福音の再発見と言われるものです。ここから、宗教改革は始まりました。

 十字架は、自分の加害者性に苦しむ人に救いとなるものです。被害者意識しかもたず、回りを責めることばかりして、自分の加害者性には、自分が如何に回りの人を苦しめているかには、気付かないうちは、本当の意味でキリスト教が分かったとは言えません。自分の加害者性に気付き、それを赦してくださる主の十字架の救いに感謝を覚える者でありたいと思います。