「新しい時の始まり(その2)」

 このような人間を見て、神様は即座に決断されます。この人間を救おうと。その第一歩として、逃げ隠れしている人間に声をかけられます。「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と。考えてみますと、神様がこのような問いを発せられるのはおかしいことです。なぜなら、神様は全知全能のお方ですから、既に、どこにいるかぐらい分かっておられるはずだからです。神様は分かっていながら、問われるのです。なぜでしょうか。この問いへの答の中に、神様が人間をお造りになられた目的を知るヒントが潜んでいるように思います。

 神様が敢えて「どこにいるのか」と問われるのは、人間に自発性を与えておられるからです。全知全能の力で強引に人間を自分の前に引きずり出すのではなく、神様の呼びかけに人間自ら応答して、人間自身の意思で神様の前に出て来て欲しいからです。なぜなら、神様にとって人間はあくまでも神様の愛の相手だからです。神様は、ご自身の愛の相手として人間を造られたのです。神様の創造の目的は、神様と人間との間の愛の遣り取りを楽しむためだったのです。

 ところで、お互いの間で愛の遣り取りが成り立つためには、お互いはそれぞれ相手に対して自由でなければなりません。一方が他方に従うことしかできないような関係では、その間には愛の遣り取りは成り立ちません。愛は自発性が命だからです。

 そのような訳で、神様は、人間を救うことにおいても、徹底して相手を人間として、つまり、ご自身の愛の相手として、即ち、自発性をもったものとして相対されます。だからこそ、まず、「どこにいるのか」と問いかけて、人間がその問いかけに自分の意思で応えて来るのを待っておられるのです。

 人間はこの問いかけに応えて神様の前に出ます。そこで神様は、ご自分に背いたこの人間を裁かれます。その裁きの判決は、神様ご自身への人間の背きが裁かれる訳ですから、死罪即ち滅びしかありません。創世記2:17に「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神様から命じられているのは、このあたりの事情を言い表わしています。ところが、なぜか、神様はこの人間を滅ぼすどころか、人間がこのような状態になっても生きながらえることができるように配慮してくださいます。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3:21)(続)