「高倉美和牧師の想い出」

 引退教師の高倉美和牧師が、先月、帰天されました。高倉先生は、私をルーテル教会に導いて下さった恩師です。

 私は、熊本のルーテル教会ではない教会で洗礼を受けました。その教会で、私は一生懸命教会生活を送りました。そして、大阪で就職をした機会に、友人に誘われて友人が通っていた日本福音ルーテル天王寺教会に通うようになりました。その教会の牧師が高倉先生だったのです。

 ある日曜日、礼拝説教のテキストは、マタイによる福音書5章13節から18節まででした。洗礼を受けた教会でのこの個所の説教は、次のようなものでした。「ここに、あなたがたは地の塩である、世の光であるとあります。皆さんのこの一週間を振り返って見てください。果たして、地の塩、世の光にふさわしい生活だったでしょうか。」

 こう言われると、人は、自分の至らなかったところだけをさぐりだすのではないでしょうか。その教会では、「洗礼を受けたら家族と言えども交わりの相手ではなく、伝道の対象です」と言われていました。それで、私は、あの説教を聞きながら、「そう言えば先週は、母に、一度も伝道のための手紙を書かなかったなぁ」とか、「教会学校の教材研究をいい加減にしたなぁ」とか、自分がクリスチャンとして怠けたことだけしか思い浮かばず、「自分はまだまだ神様の前には出られないなぁ」という思いに沈んで行ったものでした。

 ところが、高倉先生の説教は違いました。「ここには、『地の塩である』、『世の光である』と書いてある。『地の塩になれ』でも『世の光になれ』でもない。これが神の言葉である。しかるに我々は自分を見つめるとき、自分は決して地の塩でも世の光でもないことを認めざるを得ない。これが人間の現実である。ここに、神の言葉と人間の現実との戦いがある。勝負は決まっている。」

 私は、この説教を聞いたとき、身体の芯から温かいものが身体中に広がって行くのを感じました。神様が「そのままで明日も生きて行っていいんだよ」と言ってくださっているような気が致しました。そして、「福音」という言葉の意味を初めて知りました。この高倉先生の説教を聞くことがなければ、今日の私はなかったと思います。先生のような、人の生き方を変える説教を、一生に一度はしたいものです。