「福音宣教は闘い」

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:31、32)」

 教会は天の国つまり神の国の先取りということができます。天の国つまり神の国とは、神様の支配に他なりませんし、神様の支配がこの世において実現する場が教会だからです。ですから、このたとえに出てくる天の国とは、教会と置き換えても良いと思います。つまり、教会とは、常に成長を続けるものであるということです。

 神様のみ心は、この世をご自身のもとに回復することですから、この世における神様の支配は常に現実性を増していかなければなりません。これが教会の成長ということです。神様の支配が現実性を増すということは、質の問題であると共に量の問題でもあります。むしろ、質を問うには、ある程度の量がなければ意味がないということではないでしょうか。日本が開拓伝道の域を脱していないということの意味は、その量が質を問うまでの域に達していないということではないでしょうか。

 福音のもつ価値観とこの世のもつ価値観は正反対の方向を向いています。福音のもつ価値観は、人に仕える中に喜びがあるという価値観ですが、この世のもつ価値観は、いわば如何に人の上に立つかということです。イエス様の弟子たちは、イエス様に従いながらもこの世の価値観に生きていました。そして、自分たちの中で誰が一番偉いだろうかと論争していました。そのような弟子たちに、イエス様は仕えることの意味を話されます。ですから、福音を宣教するとは、この世の価値観で生きている人に価値観の変革を実現することに他なりません。人の上に立つことを目指している人に、人に仕える喜びを実現することです。これは至難の業です。祈り無しにはできません。ある意味では、闘いです。私は、福音宣教が闘いであるということ、価値観の変革を実現する闘いであるということを見失っていることが、今日の教会の停滞を招いているような気が致します。そして、この闘いは、他者を自分に仕えさせるのではなく、自分が他者に仕えることが勝利となる闘いでなければなりません。

 今、福音宣教は他者に仕えるための闘いであるという闘いの姿勢が、教会に求められているように思います。