「聖書による不正のすすめ?」

 聖書が不正をすすめている、と言えば、皆さんは信じられるでしょうか。まさか、と思いたいところですが、本当です。ルカによる福音書16章1節から13節までのイエス様のたとえ話がそれです。8節に、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります。また、9節には、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とあります。

 私たちは、聖書は神様の言葉であると教えられてきました。その神様の言葉である聖書が、不正をすすめているということは、納得のいかないことです。私たちは、聖書のこの個所をどう読めばいいのでしょうか。

 聖公会の司祭で、立教大学の教授でもあられた菅円吉先生の『十字架上の七聖語』という著書の中に、次のような一節があります。
「我々は、まず第一に、聖書が今ある姿のままで何をいわんとしているかをよく観察しなければならぬ。けれどもそのためには、我々は、さらに聖書がどういう背景をうしろにして書かれているか、言葉をかえていうと、表面上聖書に書かれてある事はどういう前提の下に書かれてあるかという事をしらねばならぬ。更にいいかえると、聖書は一つの舞台の上で書かれている。その舞台、あるいはその前提、あるいはその背景は一体何か。
 それは、簡単に言うと、この世とその中にある人間とは、悪魔の支配の下にあるという事である。人間は本来、神の支配の下にあるべきだが、その人間が今では悪魔の支配の下にある。こういう人間のあるべからざる状態から人間をもう一度神の支配の下にひきもどすために神はイエス・キリストをこの世に送られた。こういう事が新約聖書の内容の大黒柱をなしている。」

 私たちが、聖書が不正をすすめていることに納得できないのは、この聖書が書かれている前提を忘れているからなのです。私たちは、「この世とその中にある人間とは、悪魔の支配の下にあるという事」を忘れています。つまり、私たちは自分自身が悪魔の支配の下にあるということを忘れているのです。自分自身が、最早、不正の中にまみれており、不正を行わずには生きては行けないという事実を忘れているのです。聖書のあの個所は、不正を行わずにはおれないこの世にあって、あくまでも生き抜き、救い主に出会うことをすすめているのです。