「平和、それは作り出すもの」

 八月や六日九日十五日、という句があります。二度の原爆被爆とそれに続く日本の歴史上初めて体験した敗戦。八月という月は日本人にとって平和を意識しないではおられない月です。

 あの悲惨な体験をもとに、私たち日本国民は、一大決意をして新しい歩みを始めたはずでした。その決意とは、戦争をしない。そのために軍隊を持たない、という決意です。新しく制定された日本国憲法が、その前文と第九条でそのことを明らかにしています。

 しかし、この日本国憲法について、その制定の経緯から、やれ押し付け憲法だ、翻訳憲法だなど、否定的な意見が少なくありません。確かに、占領軍が占領政策を遂行する上で都合の良いように定めた憲法であるというのが、歴史的事実だと思います。
 しかし、私は、この憲法は、その制定の経緯の如何にかかわらず、日本人にとってだけではなく、人類全体にとって、貴重なものとして守り続けなければならないと思います。

 この憲法には、平和に対する考えのコペルニクス的転回があるように思います。それは、力の均衡による平和論から友好実践による平和論への転回です。相手が攻めてくることを前提にしてそれに武力で備えるという平和維持論から、相手と積極的に交流し、お互いにの間に友好な機運を作り出すという平和創造論への転回です。

 人をわざわざ人間と呼ぶように、人は、人と人との間で生きるものです。この間柄関係の中で生きるべき人間は、神様中心の生き方からそれた瞬間に、自己中心的な生き方しかできなくなっていまいました。ですから、二人の人がいるということは、ま
ず、お互いを疑心暗鬼で見つめることになってしまいます。人によって構成される国と国との間も同じです。まず、相手の国が攻めて来ることを想定して武力で防備してしまうのです。

 「平和をつくり出す人たちはさいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(口語訳聖書マタイ5章9節)。

 人間と人間、国と国との間に、平和は自然発生的に訪れるものではなく、それは人間が努力して作り出すものなのです。何もしなければ疑心暗鬼になってしまう人と人、国と国とが、積極的に交流を行うことによって、平和は作り出されます。何もしなければ疑いが生じます。その前に、交わりをもつことが肝心なのです。人間と人間との間で。国と国との間で。