「アジアルーテル国際協議会に出席して(その1)」

 2月13日から17日まで、タイのバンコクで開かれた、第3回アジアルーテル国際協議会に出席しました。この協議会は、日本を初めアジアの各地で宣教活動を行っているアメリカ福音ルーテル教会(ELCA)の主催で行われたものです。

 ELCAでは、アメリカ国内のアジアや中南米からの少数派の人々への宣教が積極的に行われています。アメリカ国内でのアジア人への宣教活動とアジアでのアジア人への宣教活動には、共通する問題があるのではないか。それを明らかにして、お互いの宣教活動に資するために協議をしようということで、アメリカ国内とアジアで宣教活動に従事している者が約半数ずつ集まって100人規模で、1999年に第1回目が香港で、第2回目が2001年に今回と同じタイのバンコクで開催され、そして、今回の第3回目の協議会となりました。

 今回は、「アジア人への宣教の変革」というテーマのもとに、宗教原理主義の台頭の問題、グローバル化に対する貧困の問題が取り上げられました。

 宗教原理主義というのは、宗教のもつ独自性の主張が排他性を帯びることとして捉えることができると思います。宗教が人間の存在にまつわる根源の問題を扱う以上、宗教のもつ排他性というのは、必然的なことかも知れません。根源的な問題というのは本来一つであるはずだからです。キリスト教もその例外ではありません。使徒言行録第4章12節に「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」とあるとおりです。

 問題は、その排他性が暴力に走りがちだということです。ですから、宗教原理主義そのものが問題というより、原理主義から生ずるテロに代表される暴力が問題なのです。

 タイは仏教国ですので、原理主義から来る暴力、つまり、キリスト者に対する迫害の問題はないようですが、イスラムの国であるインドネシアやマレーシアでは、教会が襲われることもあるとのことです。そのような中で、教会はどのように対応すべきか、することができるかが、現実問題として問われています。

 これに対する現時点での解答は、報復をしないということと、イスラム教穏健派との対話を忍耐強く続けること、ということでした。宗教は違っていても「共に神様のこどもである」という視点こそ、解決の基盤ではないでしょうか。(続)