「かみと神と神様」

 キリスト教は、創造主であられるお方とそのお方の被造物である人との関係を明らかにする教えである。当然のことであるが、その教えは、創造主に関することとはいえ、人の言葉で語られ、人の言葉で書かれている。

 人は、民族や国によって様々な言葉を遣う。ユダヤ人にはユダヤ人の言葉があり、ギリシャ人にはギリシャ人の言葉がある。ユダヤ人が創造主を表わす言葉は、当然のことながらギリシャ人が創造主を表わす言葉とは違う。いや、それ以前に、ギリシャ人の言葉に創造主に当たる言葉があるとは限らない。

 日本にキリスト教を伝えるとき、この創造主に当たる言葉を日本の言葉でどう表現すべきか、大きな問題であった。「天主」などという言葉も試されたようである。しかし、結局は、日本の言葉で最上の存在を表わす言葉は「かみ」であるとして、それを漢字で書いて「神」と表わした。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)とある通りである。私は、この「神(かみ)」という言葉の使用に多いに疑問をもっている。

「八百万(やおよろづ)の神神」という言葉があるように、日本で「神」というと、それは、「学問の神」とか「戦争の神」というふうに遣われ、それぞれの部門のトップを指す言葉に過ぎないのである。そこには、創造主のもつ「唯一最高の存在」という意味がない。しかし、そもそも、無からの創造という思想が存在しないところに、創造主という概念は存在しない。従って、日本語に創造主に当たる言葉を期待することが無理な話なのである。ここは、我慢して、「神」に頼る以外に手はない。

 そして、もう一つ大切なことは、この創造主は人格をもっておられるお方であるということである。機械的に働く原理といったものではなく、ご自身で決意され、その決意を実行されるお方であるということである。

 そこで、私は、この「神」を遣うには、特段の注意が必要であるように思う。私は、聖書の創造主を表わすためには、単に「神」と表わすのではなく、敢えて「神様」と表わすことにしている。それは、単にある部門のトップとしての存在なのではなく唯一最高の存在であり、そしてまた、原理としての存在ではなく人格としての存在であることを、表現したいからである。

 キリスト教を信じるとは、「神(かみ)」を信じることではなく、父と子と聖霊としての「神様」を信じることである。