「求む牧師」

 教会の人事の季節がやって来ました。月に1度の人事委員会が今週から始まり、来年4月1日発令の牧師の人事が協議されます。今年は引退予定の方が6名おられるのに対して、新しく牧会に出られる予定の方は、新任牧師を加えて多くて4名です。単純な計算では、2つのポストで牧師不足が生じることになります。この牧師不足にどう対応するか、人事の責任者としては頭の痛いところです。

 昨今、教会の伝道の不振が言われています。教会の伝道の不振とは何でしょうか。受洗者が増えないことがその端的な現われですが、私はそれより深刻な問題があるように思います。それは、牧師の誕生が少ないということです。受洗者が少ないということは教会の現在の問題ですが、牧師の成り手が少ないということは、教会の将来にかかる問題だからです。受洗者が今少なくても、今、牧師に成る人が多ければ、将来の教会に期待が持てます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。(マタイ9:37,38)」何時の時代も、収穫に働き手が追い着かないのがこの世の姿です。未だ福音に与っていない人が多くいます。多くの働き手が求められています。

 牧師になることを特別に「献身する」といいます。この献身ということの本質は何なのでしょうか。それは、神様に仕えるということです。しかも、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられる(第一ペトロ3:9)」神様のその忍耐に仕えることです。

 神様は、人間が神様に逆らうことによってこの世が苦しみの世になってしまったのを嘆かれ、一日も早くこの世を終わらせ新しい世を始めたいと思っておられます。その新しい世に、一人残らず移ることができるように、全ての人が悔い改めて神様の救いの業を受け入れるのを忍耐して待っておられるのです。この神様の忍耐に仕えることが献身するということです。神様のこの忍耐が一日も早く終わるように、一人でも多くの人に悔い改めを起こすこと、それが献身するということです。

 神様の忍耐に仕えること、それは、この世からは何の評価も受けません。しかし、神様が評価してくださいます。そこに牧師として働く喜びがあります。教会は牧師を求めています。