「新しい時の始まり(その4)」

 神様のその矛盾は、神様の痛みとなって現れます。最も激烈な痛みとなって。つまり、神様は滅ぼす人間を滅ぼす代わりに滅ぼしてはならないお方を滅ぼすという仕方で、この矛盾を克服されるのです。神様の独り子を十字架で滅ぼすという仕方で。これについてのある人の実感のこもったお話です。「私は、自分に子どもができるまでは、神様は自分で十字架に掛からないでどうして我が子を十字架に掛けられたのだろう。神様は卑怯ではないと言えるのだろうか、と思っていた。だが、子どもができて分かった。自分が十字架に掛かるより、我が子を十字架に掛ける方がはるかに辛い。神様はこの上ない辛い道を選ばれたのだ。」私たちが神様に対して犯した罪は、神様がこの上ないお苦しみを身に受けられなければならないほど深い罪だということです。

 神様は人間が罪を犯すのと同時に、このことを決断されました。そして、このことを実現させるために、長い準備の時を過ごされました。それは、アブラハムの召命から具体的な地上の出来事になりました。そして、この長い準備の時は、イサク、ヤコブと続く族長の時代を経て、最後の預言者といわれる洗礼者ヨハネで終わります。

 ビッグバンから人間が生まれるまでを第一の時とし、その後、人間が罪を犯す時までを第二の時とするならば、この救いを実現するまでの準備の時を第三の時とすることができます。そして、この第三の時、救いの実現を準備する時が、二千年前に終わったのです。神様の御独り子がヤコブの民、イスラエル民族の中に降誕されることによって。新しい第四の時の始まりです。

 クリスマスは、その新しい時が始まったことを記念し、お祝いする日です。今、神様の人間を救うための一切の業が終わり、罪の赦しという救いが、この世を取り囲んでいます。それが新しい第四の時の流れです。救いの業の完成の時です。

 神様によって神様の愛の相手として造られた私たちは、神様に逆らい不安と苦しみを身に引込んでしまいました。今、その私たちを神様の愛の現れである救いが取り囲んでいます。この救いは、あの十字架を私に代る神の子の滅びであると信じるだけで私に実現します。神様からの救いの業は完了しました。今は、この救いの業を人間が信仰によって受け取る時です。ですから、この第四の時は、信仰の時と呼ぶことができます。(続)