「イエス様の露払い」

 祭司ザカリヤの子ヨハネは、天使によって、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1:17)と予言されて生まれて来ました。

 また、ヨハネの父ザカリヤは、ヨハネが生まれた時、

  幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
  主に先立って行き、その道を整え、
  主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。(ルカ1:76,77)

 と、歌っています。

 ヨハネの使命は、「準備のできた民を主のために用意する」ことでした。即ち、やがてやって来られる救い主の働きが、意味のある働きとなるために、準備することでした。では、救い主の働きが意味のある働きとなるための準備とは、一体、何をすることなのでしょうか。そのヒントは、「罪の赦しによる救い」という言葉にあるように思います。

 キリスト教の救いは、罪の赦しです。救われるとは、罪が赦されることです。神の子イエス・キリストは、この罪の赦しを全ての人に実現するために、この世に人と成って降って来られました。このイエス様の救い主としての働きが、意味をもつためには、人が自分は救われなければならない者だということを知らなければなりません。つまり、人が自分の罪に気付かなければならないということです。ここに、ヨハネの使命、イエス様の露払いとしての使命があります。

 ヨハネは、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:7)と、民衆に訴えています。人の罪を指摘することほど、辛く、勇気を必要とするものはないでしょう。しかも、彼の使命は、自分の罪に気付いていない人に、それに気付かせることでした。それは、命を掛けずには行うことのできないことでした。ヨハネはその使命に殉じました。

 今、福音が力を失ってはいないでしょうか。その原因は、律法抜きの福音しか語られていないからではないでしょうか。律法が、ヨハネの厳しさをもって説かれてはいないからではないでしょうか。イエス様の露払いとしてのヨハネの働きを今一度見直して、クリスマスへの良き備えとしたいものです。