「新任牧師に贈る(その1)」

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝たえなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」パウロが若き弟子、テモテに贈った言葉です。ここに、「折が良くても悪くても」とありますが、御言葉を宣べ伝たえるのに良い折とは、どのような折でしょうか。本当にそのような折があるのでしょうか。私は、御言葉を宣べ伝たえるのに良い折など無いというべきだと思います。なぜなら、人は皆、神様に逆らっているからです。

 私たちが相手にすべきは人間です。その人間は、神様に逆らっています。聖書に、「正しい人はいない。一人もいない」とある通りです。ルターもまた、あの九十五カ条の提題の最初に、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ・・・』と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」と言っています。私たちキリスト者と言えども、生涯にわたって悔い改め続けなければならない、とルターは言うのです。人間とはそのようなものだということです。そのような、神様に逆らっている人間が、私たちがなすべき、御言葉を宣べ伝える相手なのです。御言葉を宣べ伝えるのに、良き折などあろうはずがありません。そして、なお困難なことには、人間は誰一人、自分が神様に逆らっているなどとは、考えてもいないのです。

 そのような人間を、イエス様は「深く憐れまれた」と聖書は記しています。ここに、キリスト教の独自性が現われています。その独自性とは何か。それは、即ち、神様に逆らっている人間を、神様の独り子が憐れまれるという福音です。被害者であられる神様が、加害者である人間を、神様への加害者であるが故に死をまとった命を生きねばならなくなった人間を、永遠の命へと回復してくださるという、驚くべき事実です。この驚くべき事実を、この世に浸透させていくこと、それが、教会の使命であります。そして、その教会の指導者として召されること、それが教職授任按手を授けられるということです。

 聖書の時代は、二千年前に遡ります。二千年前の時代状況と今日の時代状況は異なっています。そこに、聖書の内容を今日の時代状況に翻訳する作業が必要になります。これが、牧師の中心的な職務です。この職務を全うすることは、至難の業です。(続)