「生かされてある(その1)」

 母の葬儀のときに、甥(母にとっては孫)が、別れの言葉を述べました。その言葉を聞いたとき、私は、母の存在の意味を改めて考えさせられました。

 甥の言葉は、一言で言うと、「おばあちゃんに会うとホッとする」という内容でした。私は、これを聞いたとき、私の知らない母の一面に気付かされた思いでした。

 私にとって、母は、母が90歳近くになって呟いた、「これまで一つも良いことはなかった」という言葉に集約される存在でした。即ち、私は、母のこの言葉から、母はこのままでは生きているとは言えない、という思いをもったのです。そして、母に、生きていて良かった、という思いを持たせるのが、クリスチャンとしての自分の使命だという気持で、母に相対していました。私は、必死の思いで、神様にとって母はかけがえの無い存在なのだ、ということを分かって貰おうとしました。

 しかし、結局、私の思いは母に通じることなく、母はこの世を去ってしまいました。葬儀のとき、甥のあの別れの言葉を聞いたとき、私は、「このことを聞かせてやればよかったのだ」と思いました。お母さんはそう言うけど、お母さんに会うだけでホッとする人間がいるんだよ、と言ってあげるだけで、母は自分の存在を見直すことができたのではないかと思うのです。

 福音書に、祝福を頂きたいと子どもたちをイエス様のところへ連れてきた大人たちを弟子たちが叱ったのを見て、イエス様はその弟子たちに憤り、子どもたちを祝福された、という記事が載っています(マタイ19:13〜15、他)。

 このとき弟子たちはなぜ叱ったのでしょうか。このときの弟子たちの気持ちは、当時のイスラエルの状況を抜きには論じられません。そもそも、イスラエルは、モーセの後を継いだヨシュアに率いられてカナンの地を占領し、敵に囲まれながら創り上げられた国です。その敵に囲まれながらの状況は、イエス様の時代になっても、いや、現代でも変わりません。そのような状況のイスラエルでは、敵と戦う態勢を整えておくことが最優先の課題でした。そこで、どれだけの人数が戦いの要員として確保できるかが、最大の関心ごとでした。つまり、戦いに参加できない子どもたちは、一人の人間として位置付けられていなかったのです。そのような一人前で無い子どもたちのことでイエス様を煩わせるな。弟子たちはそう言いたかったのでしょう。