「絶えざる宗教改革を(その1)」

 宗教改革主日に与えられている福音書の日課は、イエス様の宮清めの場面です。どうして、宗教改革主日にこの個所が日課として与えられているのでしょうか。私は、日課の中のイエス様の次の言葉にその疑問を解く鍵があるように思います。ヨハネ2章16節の終わりに「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とありますが、この「商売」という言葉です。商売、即ち取引です。同じ価値になるように、持っているものをやり取りすることです。

 ルターの宗教改革は、行いと引き換えにではなく信仰によって救われるという、救いを神様の恵みとして捉える闘いでした。

 ルターの時代、神人共働説という教えが教会を支配していました。どういう教えかといいますと、私が救われるためには、神様が私を救う道を開いて下さると同時に、私自身が自分が救われるための応分の働きをしなければならない、という教えです。一人の人間が救われるためには、神様とその人が共に働かなければならないという教えです。それが神人共働説です。そして教会は、自分が救われるために必要な働きが自分には充分にはできないと思う人は、余分な働きをした人の余りを教会がストックしているので、そのストックから必要な分を買いなさいと教えていました。そうして売り出されたのが、一般に免罪符と言われているものです。ルターの福音の再発見から始まった宗教改革は、いわば、この免罪符に象徴される、当時の教会を支配していた教え「神人共働説」との闘いであったと言えます。

「神人共働説」の誤りは、神様の出来事を人間の出来事に引きずり下ろしたことです。神様の出来事は、徹底して恵みの出来事です。神様から一方的に与えられる出来事です。神様がそうしたいと思われるから、そうされる出来事です。出来事の出発は、あくまでも神様の御心にあります。

 一方、人間の出来事は、報いの出来事です。因果応報の出来事です。原因によって引き起こされる出来事です。人が、相手に向かって何かをするのは、相手が先にその人に向かって何かをしてくれているからです。人間には、この因果応報の考えが身に染みています。自分に起る出来事は、何でも因果応報で捉えようとします。因果応報にあてはまらない出来事は、例えそれが自分にとって都合の良いことでもなかなか受け入れられない、自分のものにできないのが、人間のありようです。(続)