「『武』の克服−真の平和を求めて−」

 ある武道の昇段試験の記述試験に、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というキリストの言葉を批評しなさい、という問題が出されることになったそうです。この出題者はどのような回答を期待しているのでしょうか。武道の昇段試験ですから、おそらく、「武」つまり「物理的力にによる制圧」の必要性が主張されなければ合格にはならないのでしょう。

 人間の世界には善のみならず悪が存在する。善は悪を放置すべきではなく、悪を征服し己に従わせなければならない。そこに、善と悪との闘いが起る。「武」とは、善が悪に対して立ち向かうときの不退転の決意であり、物理的力によって悪を制圧せんとする意思である。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということは、この必要な闘いを放棄することであり、それは、悪をこの世にはびこらせることとなる。従って、これは、人間の世界から排除すべき思想である。 あくまでも推測に過ぎないが、おそらく、以上のような見解が、回答として求められているのであろう。

 この回答は、一見、尤もな回答である。それは、一つの前提に立っている。我は善であり彼は悪である、という前提である。キリストのあの言葉は、この前提を否定することの上に成り立っている。即ち、「善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩14:3)、つまり、人間は皆、我も彼も善にあらず、というのがキリストのあの言葉の前提である。

「武」とは、善が悪を制圧せんとする意思などという高尚なものではなく、「万人は万人にとって狼である」という状態に自らをおとしめてしまった人類が、弱肉強食の動物の世界に倣って身に着けた、生き残り策に過ぎない。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。これが、キリストの立場である。ここには、人類の存在に関するパラダイム
シフトとしての「武」の克服がある。相手を殺して生き残るよりも、自分を殺して相手を生かすという大転換である。

 キリストのあの言葉は、悪でしかない人間を善なる神様が愛された、という前提に立つ言葉である。愛とは、自己と相手の関係のあり方にかかわりなく、つまり、相手が敵であろうが味方であろうがかかわりなく、相手に自己の命を捧げて、相手の生をより豊かにすることである。

 武道は、最早、競技の一つであり、それ以外ではない。競技とは、心身を鍛え、お互いの間に友情を育むために技を競うことである。