「ノンクリスチャンの死(その2)」

 神様は、全ての人間をご自身の愛の相手としてお造りになられました。その神様の人間への思いはただ一つ、人間が喜びの中で生きることです。神様は、例え、人間が神様に逆らおうとも、その人間を愛し続けられます。神様に逆らうことは、人間にとっては、滅びを招くことでありますが、人間が一人でも滅びることは神様のみ心ではないのです。

 神様は、ただただ、恵みをもって、愛をもって、人間に近づいてこられます。あの裁きのときも同じです。神様は、ご自身の救いの業、御独り子を十字架に掛けられた救いの業を人間が自分のためだとして受け入れるかどうかを問われるだけです。その救いに与かって欲しいからです。問題は、母が、そのとき、どのような態度をとるかです。愛をもって近づいてこられる神様に対して。

 夜道を一人で歩いている女性を見て、ある男性が、物騒だから家まで送って行ってやろうという純粋な親切心で、その女性に話しかけたとします。その女性は、この男性の申し出にどう振る舞うでしょうか。この男性が見ず知らずの男性であれば、女性にはただ恐怖心が起るだけでしょう。このとき、この女性が信じられる人がいて、その人が「この男性は信じても大丈夫だよ」と言ってくれれば、この恐怖は消えて行きます。

 人間と神様との間でも同じです。神様は人間に対して、恵みと愛しか与える積りはないのです。しかし、人間にはその神様のみ心が通じず、返って、近づいて来られる神様が恐怖の対象になってしまいます。これが地獄です。地獄という実体がある訳ではありません。それは、人間の心が勝手に作り出すものに過ぎません。神様を信じないということは、このようなことが起こるということです。信じない者は救われないというのは、このことなのです。

 使徒言行録16章31節に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」とあります。私はイエス様を私の救い主として信じています。そうすると、私の家族である母も救われるということになります。なぜでしょうか。それは、私が母と神様の中を取り持つことができるからです。「この方は神様だよ、信じていいんだよ」という私の言葉によって、母から恐怖心が去り、母は安心して神様を受け入れることができるのです。これが、ノンクリスチャンの母の救いです。(了)