「絶えざる改革を」

 ルターの宗教改革が起こった当時の教会は、「神人共働説」のもとに、人が救われるためには、神様がその人のために救いの道を開いてくださると同時に、その人もまた救いにふさわしい功績を積まなければならない、と教えていました。

 神様は、人間をご自身の愛の相手としてお造りになられました。一般的に言って、二者の間に愛が成り立つためには、その両者は互いに自由でなければなりません。神様と人間との間に愛が成り立つためには、人間は神様に対して自由でなければなりません。自由であるとは、従うこともできるが逆らうこともできる、ということです。神様と人間との間に愛が成り立つためには、人間は神様に従うこともできるし逆らうこともできなければなりません。神様は人間をご自身の愛の相手として造られるとき、その愛を成り立たせるために、人間に神様に従う能力と共に逆らう能力も与えられました。その人間が神様に逆らう能力を刺激する存在として、神様は悪魔を造られたのです。悪魔は、人間が人間として、即ち、神様の愛の相手として存在するために不可欠の存在なのです。悪魔がいなければ人間は神様のロボットになってしまいます。

 この悪魔の唯一の働きは、人間を神様に背かせることです。私たち人間は、神様によって良きものとして造られながら、何時の時点かで悪魔に従い、神様に逆らう者になってしまいました。その結果、生きることが不安と苦しみになってしまいました。そして、一度悪魔に従ったが最後、人間は自力では悪魔の支配から逃れることはできないのです。この世は、悪魔から逃れられなくなった人間の生きる場です。

 私たちは悪魔の支配のもとに生きています。その悪魔は、私たちに、神様に背く道を、あたかも、その道がより人間らしく生きる道であるかのように示しながら、私たち人間を誘います。そして、私たちはその誘いにのってしまうのです。そして私たちは、これが御心に適う道だと思いつつ、神様に逆らう道へと迷い出ます。

 あのルターの宗教改革の時代に教会を誤らせていた「神人共働説」も、人間がまじめに信仰を追及する中で考え出されたものです。まじめな信仰を利用して、悪魔は誘いをかけて来るのです。ここに、宗教改革が絶えず起こされなければならない理由があります。私たちは、まじめな信仰を送りつつ、神様に背いてしまうからです。