「総会議長に再選されて」

 5月4日から6日まで、宣教百年記念東京会堂で行われた第21回定期総会で、総会議長として再選されました。

 総会議長に再選されて思うことは、ただ一つ。教会の危機が言われていることです。確かにそのような現象が見えます。ここ数年、私たち日本福音ルーテル教会だけでなく日本全体で、いや世界中でというべきでしょう、受洗者の数が減っています。

 教会が力をなくすとき、そこには常に一つの特徴があります。それは、神様と人間との関係が、人間と人間の関係に変質することです。神様と人間との関係、それは、恵みとそれへの応答の関係です。これが、人間と人間との関係、即ち、取引の関係、因果応報の関係に変質するとき、教会は世俗化し、弱体化します。

 私たち罪に堕ちた人間は、常に、自分に対する評価を期待します。これが曲者です。人からだけでなく、神様から評価されたいという、私たちの中に思わず知らずのうちに生じてくる欲望が、神様からの恵みを恵みとして受け取ることを忘れさせ、自分の功績が認められた結果であると錯覚して、受け取るのが当然であるかのように受け取らせ、恵みを色褪せたものにしてしまうのです。このことによって、キリスト者とそうでない人との間に、落差がなくなるのです。神様の恵みに驚くという落差が。この驚きは、罪の自覚の反映に外なりません。ですから、この驚きが希薄になったということは、罪の自覚が希薄になったということを意味します。

 宗教改革を起こしたルターのあの95ヶ条の提題の第1条で、ルターは、キリスト者にとっては、その全生涯が悔い改めでなければならない、と言っています。彼は、まさに、この罪の自覚の希薄化を信仰の敵とみなしていたということが言えます。即ち、罪の自覚の希薄化が、神様からの恵みに対する驚きを希薄にし、教会の活力を減退させているのです。

 このことを救うのは、やはり、神様の恵みのみです。神様の恵みの最大の働きは、罪を認識させることです。この恵みによる罪の認識は、その人を悔い改めへと導き、その悔い改めは、自分が既に神様の御手の中にいることに気付かせてくれます。この気付きが、教会を活き活きとさせる驚き、恵みの豊かさへの驚きに通じているのです。神様が、人間に対して常に恵みの主であられること、そこに何時如何なるときも教会が希望を持つことができる根拠があります。教会は神様と共に永遠です。