「新しい時の始まり(その5)」

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。これが、新しい第四の時が始まったときのイエス様のお言葉です。イエス様の誕生で始まったこの新しい第四の時は、イエス様のこの言葉がこだましています。即ち、この新しい第四の時というのは、福音を信じる信仰の時なのです。福音が信じることによって実現する時なのです。

 イエス様のこのみ言葉を注意深く見てみましょう。イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた」と言っておられます。「時は満ち」たとはどういうことなのでしょうか。それは、神様の側からのなされるべきことは全て成し終えられたという意味なのです。神様が、人を救うために神様の側でなされるべき業を、全て成し終えられた、ということです。では、そうならば、神の国はやって来てしまったのかというと、そうではない。神の国はあくまでも、「近づいた」だけなのです。やって来てしまったというには、もうワンアクションが必要なのです。

 神様の側では全ての必要な業が成し終えられているのに、必要なさらなる一つのアクションとはいったい何なのでしょうか。それは、神様の側に成すべき何かが残っているというのではなくて、その神様の相手たる人間に成すべきことが与えられているということです。では、それは何でしょうか。それは、時が満ちたことを受け入れることです。受け入れるためには何をすべきでしょうか。それは、悔い改めることです。悔い改めたとき、その瞬間に、私たちは、神様の手に包まれている自分を発見することができます。その発見こそ、福音を信じることなのです。

 今、神の国が私たちを取り囲んでいます。私たちは神の国に取り囲まれています。そのことを信じる人には、神の国が現実化します。

 ここで問題が生じます。神の国は近づくだけであって、自動的に一人の人に現実化するものではないということです。つまり、神様によって時が満ち、神の国が人々を取り囲んでも、取り囲まれた人が機械的にそのことを受け入れるとは限らないということです。神の国が取り囲んでいるという事実を告げ知らせる必要があります。神の国の到来における宣教の必然性です。

 神様は、必要な業を全て終えられました。今は、人がその神様の業を受け入れるだけです。神様は全ての人が受け入れるのを忍耐して待っておられます(ペトロ第二3:9)。新しい第四の時は、この神様の忍耐に仕える時でもあるのです。(了)